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[SPOTLIGHT]|ポーランド民族の魂に触れる。2023年2月A・Bプログラムの背景を探って

公演情報2022年12月12日

定期公演で採り上げる作曲家や楽曲にさまざまな側面から迫るこのコーナー。
2023年2月定期公演では、Aプログラムでルトスワフスキ、パヌフニク、そしてBプログラムではシマノフスキと、ポーランドの作曲家の作品を特集します。
Aプログラムの指揮を務める尾高忠明に、ルトスワフスキとパヌフニクの作品に父・尾高尚忠の作品を組み合わせた意図について、お話を聞きました。
また、シマノフスキについて、専門家の視点から重川真紀さんにその魅力を紹介していただきます。

1. インタビュー
尾高忠明(指揮)に聞く 3人の作曲家、
尾高尚忠、ルトスワフスキ、パヌフニクに寄せる思い

2. 寄稿
シマノフスキにおける
原初的文化としての「ポーランド」
重川真紀



1. インタビュー
尾高忠明(指揮)に聞く 3人の作曲家、
尾高尚忠、ルトスワフスキ、パヌフニクに寄せる思い


2023年2月Aプログラムでは、尾高忠明の指揮、ソリストに宮田大(チェロ)を迎えて、尾高尚忠《チェロ協奏曲》、パヌフニク《カティンの墓碑銘》、ルトスワフスキ《管弦楽のための協奏曲》をお贈りします。このプログラミングについて尾高忠明に話を尋ね、背後に隠されている、歴史的とも言えるつながり、作曲家同士の交流、そして時代を超えて現在にも通ずるテーマを語ってもらいました。

(聞き手・構成:片桐卓也)

尾高忠明


― お父様である尾高尚忠氏、そしてポーランド出身のふたりの作曲家、パヌフニクとルトスワフスキを並べた今回のプログラムは、かなり異色と感じます。この3曲を選んだ理由を教えてください。

尾高: 父の《チェロ協奏曲》を演奏しようというアイデアはずっと持っていたのですが、実際のところ、この曲はかなりの大曲でして、なかなか演奏する機会を得られないでいました。しかし、2017年に大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会でこの協奏曲を採り上げることになり、そこで宮田大さんにソリストをお願いしました。宮田君はいつもそうですが、入念に準備をして演奏に臨んでくれましたので、大阪のお客様もとても喜んでくれたすばらしい公演となりました。そこで、この曲をどうしてもNHK交響楽団とも演奏したいと思っていたのですが、ようやく今回の定期公演で実現します。

この《チェロ協奏曲》は1943年に書かれた作品ですが、ちょうどオヤジがNHK交響楽団の前身である「新交響楽団」を指揮して日本デビューを飾った1941年から2年後の作品です。20世紀も半ばのことですから、世界はいわゆる前衛的な現代音楽へと進んでいた時代ですが、オヤジや外山雄三先生などは有馬大五郎さん(元NHK交響楽団副理事長)から「日本は鎖国をしていたせいで、バッハもモーツァルトもベートーヴェンも知らない。お前たち、まずそこから出発しろ」と言われていたのです。そこで、調性のある、骨格もしっかりした作品を書いていました。ともすると古くさいと言われるスタイルかもしれないけれど、晩年のリヒャルト・シュトラウスが書いた《最後の4つの歌》のように、20世紀半ばの作品でも調性を使ったすばらしい作品が残され、それが今も愛されていることを考えると、堂々と和声を使って書いた《チェロ協奏曲》をぜひ聴いていただきたいとも思いました。それがスタートですね。

尾高尚忠

尾高尚忠


― お父様は1931年にウィーンに留学され、一度帰国してから、再び1934年からウィーンで学ばれましたね。

尾高: その時に、オヤジはパヌフニク氏と知り合って、ウィーン時代の最高の友人となりました。そのパヌフニクがある時、「子どもたちにでも聞かせてやってくれ」と我が家に送ってきたレコードがあり、それが彼の《シンフォニア・サクラ(交響曲第3番)》だったのです。それを僕は子ども時代に聴いて、あまりにもすばらしいので強く記憶に残っており、指揮者になってからも何度か日本で採り上げてきました。ロンドンのBBCプロムスでも演奏したことがあるのですが、その時はまだパヌフニク氏もご存命で、コンサートに来てくれて、涙を流して感激してくれたという思い出もあります。

― おふたりともワインガルトナーのお弟子さんだったとか。

尾高: 指揮もするし、作曲もするという存在はなかなかいないと思うのですが、オヤジもパヌフニクも作曲も指揮もするという点も似ていて、そこもまた気心が通じる点だったのでしょうね。

― パヌフニクはポーランド出身ですが、イギリスに帰化していますね。

尾高: 彼も祖国を愛する気持ちはとても強いものがあったと思うのですが、ポーランド国内の情勢があまり良くなくて、イギリスに活動の場を求めたのですね。そこで指揮も作曲も行なっていました。今回、演奏する《カティンの墓碑銘》はパヌフニクの傑作のひとつですが、第2次世界大戦中のポーランド人が虐殺された事件をもとに書いた非常にショッキングな作品です。

僕はポーランドのオーケストラが大好きで、よく演奏に行っていたのですが、ある時、ワルシャワ・フィルハーモニー交響楽団との共演の際、この《カティンの墓碑銘》を採り上げたいと言ったところ、楽員たちがリハーサル前に僕のところに来て、「初めて演奏します」と言うのです。パヌフニクの作品がポーランド国内で演奏できない時代もあったし、「カティンの森」の事件は思い出したくもない出来事だと言うのです。しかし、最初にリハーサルをした時に、オーケストラのメンバーがみんな嗚咽をもらし、コンサートは非常に深く記憶に残るものになりました。オーケストラの編成は小さいのですが、ヴァイオリン・ソロの高音のすすり泣きのような部分から始まる、とても緊迫感のある作品であるし、オヤジの無二の親友であったパヌフニクの作品ということで、あわせて演奏するのはとても意味のあることだと思いました。

パヌフニク(左)とルトワフスキ(1990)

パヌフニク(左)とルトワフスキ(1990)


― そして、ルトスワフスキですが、彼とパヌフニクは第2次大戦中にはワルシャワにいて、演奏も一緒にしていたようですね。

尾高: オヤジとルトスワフスキには直接の接点はないのですが、オヤジが1911年生まれ、ルトスワフスキは1913年生まれ、そしてパヌフニクは1914年生まれ。ほぼ同じ時代に洋の東西で生まれた人間がいつしか作曲家となって活躍したというのは、とても面白いし、歴史を感じさせる出来事ですよね。

― ポーランドの作曲家といえば、我々日本人にとっては、まずショパン、ですが。

尾高: そうなのですが、ショパンはポーランドでは国民的な存在であるけれど、活動のほとんどはフランスでしたから特殊な存在で、ポーランドそのものを表現しているとは言い切れない。ポーランド人というのは音楽に対してすごく真面目で、オーケストラもとても練習が好き。そして音楽をとても大事にします。パヌフニクの作品を演奏した時もそうでしたが、シマノフスキの《ヴァイオリン協奏曲》を演奏した時も、「これは私たちの曲なんだ」という愛情をとても強く感じました。指揮者としては、そういう場所で演奏しているのは、とても温かい感じがしますね。シマノフスキ、パデレフスキ、そしてルトスワフスキもパヌフニクも、ポーランドの作曲家の個性には、熱いものがあり、それが共通点かもしれません。

― ルトスワフスキの《管弦楽のための協奏曲》は1954年の作品ですが、オーケストラにとっては難曲ですね。

尾高: 実は、数年前(2008年5月)に一度、NHK交響楽団でこの曲を採り上げたことがありますが、その時に「N響は本当に上手いな」と、当たり前ですが感じました。日本国内だけでなく、イギリスのオーケストラでも指揮していますが。「協奏曲」という名前がついているだけあって、オーケストラの各パートにかなりの名人芸を要求している作品ですが、それをこれだけ演奏できるオーケストラはそう多くはないと思います。これを再び共演したいという思いもありました。

― 尾高さんにとって、お父様の作品を演奏するということは、どんな意味を持っていますか?

尾高: 尾高家の系図を見ると、音楽家になったのは本当にオヤジだけで、それも大反対されたところを、頑固に貫いて音楽家になったという経緯があります。またガーシュウィンに憧れていて、彼が39歳で亡くなったと知ると、なぜか「自分も39歳で亡くなるよ」と言っていたらしいのですが、本当にそうなりました。そのあたりに、どんな運命の働きがあるのかはわかりませんが、1930年代にウィーンに留学し、第2次世界大戦の中で作曲活動などを続け、そして戦後、若くして亡くなったという作曲家の作品を、自分としても再確認したいということはありますね。その時代に生きた作曲家たちの群像も含めて、いまこの状況の中で彼らの思いを辿りたい。それをお客様とも共有したいと思います。


公演情報:
第1977回 定期公演 Aプログラム
2023年2月4日(土)開演 6:00pm
2023年2月5日(日)開演 2:00pm
NHKホール

尾高尚忠/チェロ協奏曲 イ短調 作品20
パヌフニク/カティンの墓碑銘
ルトスワフスキ/管弦楽のための協奏曲

指揮 : 尾高忠明
チェロ : 宮田 大

尾高忠明さん



尾高忠明(指揮)
1947年生まれ。桐朋学園大学で齋藤秀雄に指揮を学ぶ。第2回民音指揮者コンクールで第2位に入賞、NHK交響楽団の指揮研究員となる。N響との共演は、初めて指揮した1971年以来半世紀におよび、2010年からは正指揮者をつとめている。大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽監督として2018年から活躍するほか、東京フィルハーモニー交響楽団の桂冠指揮者、札幌交響楽団の名誉音楽監督、読売日本交響楽団の名誉客演指揮者、紀尾井ホール室内管弦楽団の桂冠名誉指揮者となり、国内各地の主要オーケストラに客演を重ねている。海外での活動歴も長く、イギリスのBBCウェールズ交響楽団の首席指揮者をつとめた後、桂冠指揮者の称号を贈られている。東京藝術大学の名誉教授など、後進の育成指導にも力を入れ、2021年から「東京国際音楽コンクール〈指揮〉」の審査委員長をつとめる。曾祖父の渋沢栄一を主人公とする『青天を衝け』など、NHK大河ドラマのテーマ曲の指揮でも親しまれている。なお父の尚忠は作曲家・指揮、母の遵子はピアニスト、兄の惇忠も作曲家という、音楽一家の出身である。今回は、父尚忠が1943年に作曲した《チェロ協奏曲》が取りあげられる。また、ポーランド出身のパヌフニクとルトスワフスキの2作は2008年5月の定期公演でも演奏しており、これらも思い入れの深い作品である。

(山崎浩太郎)



2. 寄稿
シマノフスキにおける
原初的文化としての「ポーランド」

重川真紀


カロル・シマノフスキ

ポーランドの作曲家カロル・シマノフスキ(1882~1937)が生きたのは、祖国がようやく独立を果たした激動の時代だった。その渦中にあって、彼は自国の音楽の改革に尽力し、ルトスワフスキ(1913~1994)やペンデレツキ(1933~2020)へとつながるポーランド現代音楽の礎を築いたことで知られる。作曲家としての歴史的な重要性については誰もが認めるところだが、彼の音楽がポーランド国内で広く親しまれているかといえば、実はそうとも言い切れない。世界的ピアニストのアルトゥール・ルビンシュタイン、ヴァイオリニストのパウル・コハニスキなど、当時の著名な演奏家から支持を得ていたにもかかわらず、彼の音楽は祖国ポーランドの聴衆たちにはあまり受け入れられなかったのだ。

その原因は、シマノフスキ独自の「ポーランド音楽」の捉え方にあった。「ポーランドらしい」音楽を書くためにどの素材を使うかという点において、彼は当時の人々が思い描いたような、マズルカやポロネーズなどのわかりやすい定型に頼ることをよしとしなかったからだ。シマノフスキの民族性のとらえ方は、ポーランドのモニューシコ(1819~1872)やチェコのスメタナ(1824~1884)のような過去の作曲家が素朴に思い描いていたものとは異なっており、まさにその点がポーランドでの受容にも少なからず影響していたのである。

作風の変遷

シマノフスキの作品は交響曲、オペラからピアノやヴァイオリンなどの独奏曲、歌曲にいたるまで、さまざまなジャンルにわたる。作風についていえば、ショパンの遺産の継承から後期ロマン主義へ、フランス印象主義から自国の民俗的素材を取り入れた新古典主義へとめまぐるしく変化した。交響曲を例に挙げると、事実上彼の最初の交響曲といえる《交響曲第2番》(作品19)が、伝統的な変奏曲やフーガの形式を取り入れ、半音階や対位法を駆使した構築的な書法に拠(よ)っているのに対し、円熟期に書かれた《交響曲第3番「夜の歌」》(作品27)は、単一楽章で合唱を伴うカンタータ風のつくりであり、調的機能より響きそのもののうつろいを楽しむ色鮮やかで奔放な音楽となっている。さらに晩年に書かれた《交響曲第4番》(作品60)は、「サンフォニ・コンセルタント(協奏交響曲)」という副題にもかかわらずピアノ協奏曲的な性格も兼ね備えており、明快で簡素なテクスチュアと躍動するリズムが全体を覆っている。

こうした一見カメレオン的ともいえる様式の変化には、旅行や文学、美術作品などその時々でシマノフスキが受けた刺激が大きく影響していたが、なかでも彼は詩や小説といったテクストに触発されることが多かった。先に述べた《交響曲第3番》では、イスラムの神秘主義詩人ジャラールッディーン・ルーミーの詩(ポーランドの作家タデウシュ・ミチンスキがポーランド語に訳したもの)が用いられているのだが、ここでシマノフスキは宗教的恍惚を歌う神秘的なルーミーのテクストに合わせ、木管のトリル、ピアノのアルペジオ、弦楽器のトレモロを用いて幻想的な音世界を作り出した。これはいわゆる彼の「印象主義期」における典型的なサウンドとなるのだが、《ヴァイオリン協奏曲第1番》(作品35)や《歌劇「ルッジェロ(ロジェ)王」》(作品46)などこの時期の作品に総じてみられる異国的ムードは、当時彼が示していた地中海世界の歴史・文化に対する高い関心を反映したものにほかならない。

1918年の第一次世界大戦の終結とそれに伴う祖国の独立を機に、彼の作風は新古典主義的な方向へと変化するが、そのきっかけとなったのは大戦直後に書かれた歌曲集《スウォピェヴニェ》(作品46bis)だった。この作品を貫く素朴な響きと躍動感のあるリズムは、ポーランド南部の山岳民族であるグラレ(山人)の音楽的特徴に拠っているのだが、シマノフスキはここで気鋭の詩人ユリアン・トゥヴィムによる古いポーランド語の響きを模したテクストと、〔自身の考える〕プリミティヴなエネルギーに満ちたグラレ音楽を組み合わせた。つまりシマノフスキにとって重要だったのは、あるテクストを咀嚼(そしゃく)し、根底に存在している世界観と自分のなかでリンクするものを音楽で表現することであり、その目的のために、特定の場所や時代に囚われず、広い範囲に創作の源泉を求めたのだ。

1921年冬にニューヨークで世界的なソリストたちと。左上:パウル・コハニスキ(ヴァイオリン)、左下:アレクサンドル・ジロティ(ピアノ)、右上: アルトゥール・ルビンシュタイン(ピア ノ)、右下:カロル・シマノフスキ

1921年冬にニューヨークで世界的なソリストたちと。左上:パウル・コハニスキ(ヴァイオリン)、左下:アレクサンドル・ジロティ(ピアノ)、右上: アルトゥール・ルビンシュタイン(ピアノ)、右下:カロル・シマノフスキ


シマノフスキが目指したもの

ところが、独特のエキゾティシズムを湛(たた)えたシマノフスキの作品に、当時のポーランドの聴衆は冷ややかな反応を示した。親しい友人ですら、彼の音楽を「無国籍的性格」を持つものとみなし、それこそが「欠陥」だと評したのである。容赦のない批判に対し、シマノフスキは自身の評論のなかで、たとえ表面的な民俗的特徴に囚われない考え方が「過激」であろうと、「私はまさにその過激さのなかにこそ、わが国の音楽を他国の束縛から解き放つ唯一の可能性を見る」と反論した。さらには、自分の音楽のなかに「コスモポリタニズム」や「インターナショナリズム」を探すべきでなく、ポーランドの民俗的素材にもとづいておらずとも、それらはれっきとしたポーランド人作曲家のものだと主張したのである。

他と区別しうるような「ポーランドらしさ」をどうすれば表現できるのかという点について、シマノフスキがどこまでつきつめて考えていたか、いくらかの疑問は残る。しかし彼の多面的な活動を見渡すと、その根底に文化の原初的なもの、すなわち民族の枠を超えた古代ないし古層文化への関心があったことが明らかになる。おそらくシマノフスキの考えるポーランド性とは、局地的なものを飛び越して、より根源的な文化につながるものであり、中世シチリアやグラレの世界も、彼のなかではキリスト教以前の世界という深いところでポーランドとつながりを持つものだったのだ。シマノフスキの作品の面白さは、こうした彼独特の観念的な考え方や感じ方が反映された点にあり、だからこそ、そこに見られるある種の混沌(こんとん)も、豊かな色彩感や特有の高揚感となって聴くものを魅了するのである。

[しげかわ まき/音楽学]


公演情報:
第1979回 定期公演 Bプログラム
2023年2月15日(水)開演 7:00pm
2023年2月16日(木)開演 7:00pm
サントリーホール

ドヴォルザーク/序曲「フス教徒」作品67
シマノフスキ/交響曲 第4番 作品60「協奏交響曲」*
ブラームス/交響曲 第4番 ホ短調 作品98

指揮 : ヤクブ・フルシャ
ピアノ : ピョートル・アンデルシェフスキ*

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