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NHK交響楽団のあゆみ

日本近代音楽史、とくにオーケストラの発展史に深い知見をもつ音楽評論家の岩野裕一さんが、第2次世界大戦後、現在までのN響の歴史を時代・社会・世相などの背景とともに振り返ります。

飛躍するN響

ヨーロッパ公演と才気ある新星たちとの出会い

1997年4月23日から30日まで、デュトワ率いるN響はヨーロッパ公演を行った。以後、デュトワとの海外公演は恒例となるが、ヴァイオリンの竹澤恭子をソリストに、ワーグナー《さまよえるオランダ人》序曲、シベリウスとメンデルスゾーンの《ヴァイオリン協奏曲》、プロコフィエフ《交響曲第6番》というプログラムで4か国6都市を回ったこのツアーでは、最終公演地のウィーンでデッカによるプロコフィエフのレコーディング・セッションが行われている。これは、デュトワのデッカに対する強い働きかけで実現したもので、のちにすみだトリフォニーホールでレコーディングされたプロコフィエフの《ロメオとジュリエット》抜粋とのカップリングにより、1998年夏に全世界でリリースされた。

指揮:シャルル・デュトワ、ヴァイオリン:竹澤恭子(1997年4月23〜30日、ヨーロッパ公演)
指揮:シャルル・デュトワ、ヴァイオリン:竹澤恭子(1997年4月23〜30日、ヨーロッパ公演)

ツアーから帰国したN響は、6月定期にデュトワが登場し、欧州公演プログラムのほか、マーラー《交響曲第5番》や武満徹の《ファミリー・トゥリー(系図)》で清新な演奏を披露している。デュトワはこの年12月にも来日して、「オール・ラヴェル・プログラム」(第1337回定期公演)、再演となる《春の祭典》(第1338回定期公演)、ベルリオーズの《交響曲「イタリアのハロルド」》(第1339回定期公演)などを取り上げた。

1997年の定期公演で忘れてならないものとしては、3月に登場した朝比奈隆のブルックナー《交響曲第8番》(第1317回定期公演)における圧倒的名演や、9月の定期公演を指揮したスヴェトラーノフによる《交響曲第5番》をメインとした「オール・チャイコフスキー・プログラム」(第1328回定期公演)とマーラー《夜の歌》(第1329回)、11月のサヴァリッシュによるシューベルト生誕200年(第1334回定期公演)の《交響曲第8番「ザ・グレート」》、ブラームス没後100年(第1335回定期公演)の《ドイツ・レクイエム》、メンデルスゾーン没後150年(第1336回定期公演)の《交響曲第3番「スコットランド」》をメインとした、マエストロならではのメモリアル・イヤー・シリーズが上げられよう。

朝比奈隆(1997年3月6・7日、第1317回定期公演)
朝比奈隆(1997年3月6・7日、第1317回定期公演)

また、この年からN響は、定期公演の聴衆アンケートによる「N響ベスト・コンサート」を選出している。記念すべき第1回のベスト1に選ばれたのは朝比奈隆のブルックナーで、第2位がデュトワの《イタリアのハロルド》、第3位がスヴェトラーノフのチャイコフスキーという結果だったが、ベストテンのうちデュトワが5公演を占めて常任指揮者としての貫禄(かんろく)を示した。

1997年、N響は21世紀に向けて、楽団運営における「5か年計画」を策定した。「世界一級の高い芸術性を目指して」という大きな柱のもと、「広く、深く、心に響く音楽を」「世界一級のオーケストラに」「財政基盤の確立」という3つのキャッチフレーズを掲げ、デュトワ体制をさらに深化させていく。

1996年9月にデュトワが常任指揮者に就任して以来、演奏の充実ぶりや定期会員数の増加など、N響は目に見える形でよい方向に変わりつつあった。「デュトワ現象」という言葉が生まれたのもこの頃で、1998年9月からは音楽監督に就任した。N響の歴史において「音楽監督」のポストが置かれるのはこれが初めてであり、デュトワへの信頼と期待の大きさがこのことからも伺えるだろう。

そして1998年の定期公演もきわめて充実したものであった。デュトワは3・4月と12月に登場して、メシアン《トゥランガリラ交響曲》(第1348回定期公演)や、ドビュッシー《選ばれた乙女》とグリーグ《ペール・ギュント》全曲(第1369回定期公演)などで名演を聴かせた。また、名誉指揮者3人も揃(そろ)い踏みしており、病気をおして来日したシュタイン(2月)が渾身(こんしん)の力を振り絞って指揮したワーグナー《パルシファル》第3幕(第1345回定期公演)、ブロムシュテットが母国の名門・スウェーデン放送合唱団の名唱を引き出したバッハ《ミサ曲ロ短調》(第1362回定期公演)、3プログラムすべてをシューマンで通したサヴァリッシュ(11月)と、それぞれが個性を発揮して感動を呼んだ。

ホルスト・シュタイン(1998年2月18・19日、第1345回定期公演)、ウォルフガング・サヴァリッシュ(1998年11月5・6日、第1364回定期公演)
ホルスト・シュタイン(1998年2月18・19日、第1345回定期公演)、ウォルフガング・サヴァリッシュ(1998年11月5・6日、第1364回定期公演)
ヘルベルト・ブロムシュテットの指揮によるバッハ《ミサ曲ロ短調》(1998年10月8・9日、第1362回定期公演)
ヘルベルト・ブロムシュテットの指揮によるバッハ《ミサ曲ロ短調》(1998年10月8・9日、第1362回定期公演)

また、5月にはアンドレ・プレヴィンが、1995年10月に続き2度目の定期公演に登場し、マーラー《交響曲第4番》(第1354回定期公演)や、モーツァルト《ピアノ協奏曲第24番》の弾き振りを披露したほか(第1352回定期公演)、「アンドレ・プレヴィンとN響の仲間たち」と題した室内楽公演で、自身のピアノと堀正文、篠崎史紀(ヴァイオリン)、川﨑和憲(ヴィオラ)、木越洋(チェロ)でブラームス《ピアノ五重奏曲》を演奏、メンバーと親密な関係を築いている。

アンドレ・プレヴィンの弾き振り(1998年5月8・9日、第1352回定期公演)
アンドレ・プレヴィンの弾き振り(1998年5月8・9日、第1352回定期公演)

9月にはチョン・ミョンフンがヴェルディ《レクイエム》(第1358回定期公演)とチャイコフスキー《交響曲第4番》(第1359回定期公演)で熱い音楽を聴かせている。さらに4月定期はウルフ・シルマー、アラン・ギルバート、準・メルクルという、海外の期待される若手指揮者3人の競演となったが、準・メルクルはブラームス(シェーンベルク編)《ピアノ四重奏曲第1番》(第1351回定期公演)の緻密な名演で、日本における評価を決定的なものとした。

なお、この年9月から、N響はBプログラムの会場をNHKホールからサントリーホールに移している。ちなみにサントリーホールでは、ホール主催の「NHK交響楽団シリーズ」が開館翌年の1987年から続けられており、さらに東京・渋谷のオーチャードホールでもホールとN響が共同企画の形で1998年秋から「オーチャード定期」をスタートした。こうしたホール主催の公演や地方公演は、オーケストラが若手の有望指揮者を思い切って起用する好機でもあり、準・メルクルも定期公演に登場する前年の1997年6月のサントリーホール主催の公演でN響デビューを果たしている。

また従来、地方公演は3月と夏のシーズンオフに集中して行われてきたが、海外公演の増加などもあり、1999年3月からは3月の定期公演を廃止して、特別公演・地方公演の充実が図られている。加えて、「定期公演をそのまま地方で聴きたい」というファンの要望に応えて、鎌倉芸術館(神奈川)、足利市民会館(栃木)、愛知県芸術劇場(愛知)、岡山シンフォニーホール(岡山)などの公立ホールと提携しての「準定期公演」が定例化したのも「5か年計画」に基づいた1998年のことで、デュトワの就任以降、聴衆の拡大に向けてオーケストラの運営面でも積極的な動きが見られたことも特記したい。

メジャーとしての誇りを抱いて(1999-2001)

1999年のN響定期ラインナップは、まさにメジャー・オーケストラとしての風格と充実度を備えたものだった。まず、デュトワが4月、9月、11・12月の年3回登場して音楽監督としての重責を見事に果たし、1・2月のスクロヴァチェフスキ、2月のスヴェトラーノフ、5月のプレヴィンと大物指揮者が目白押しに客演。6月は欧米でポストを持つ若手3人、米・ミネソタ管弦楽団音楽監督の大植英次、独・ヘッセン州立歌劇場音楽総監督の上岡敏之、スウェーデン・マルメ国立劇場音楽総監督の大勝秀也が競い、10月は無念のキャンセルとなったシュタインに代わって、チェコ生まれのベテランであるイルジー・コウトが再登場。9月のエマニュエル・クリヴィヌ、11月のサヴァリッシュと、水も漏らさぬ布陣が揃った観がある。

スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ(1999年1月21・22日、第1370回定期公演)、エフゲーニ・スヴェトラーノフ(1999年2月11・12日、第1373回定期公演)
スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ(1999年1月21・22日、第1370回定期公演)、エフゲーニ・スヴェトラーノフ(1999年2月11・12日、第1373回定期公演)

話題の公演には事欠かないが、センセーショナルな成功を巻き起こしたのは、デュトワが11月の第1394回定期公演で世界初演した、中国出身の作曲家タン・ドゥン(譚盾)の創案・台本・作曲・演出による《門~オーケストラル・シアターⅣ》である。京劇、オペラ、そして浄瑠璃という、唱法の異なる3つのジャンルとオーケストラを融合させ、なおかつホールの空間と映像の力を十二分に活用したこの意欲作を言葉だけで表現することは困難だが、これほど大胆な作品を委嘱して上演することは、数年前までのN響では到底考えられなかったことであり、聴衆の強い支持もあいまって、N響が確実に新しい時代を迎えたことを実感させるものだった。

スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ(1999年1月21・22日、第1370回定期公演)、エフゲーニ・スヴェトラーノフ(1999年2月11・12日、第1373回定期公演)
シャルル・デュトワの指揮によるタン・ドゥンの《門~オーケストラル・シアターⅣ》世界初演(1999年11月25・26日、第1394回定期公演)

なお、この年N響は、ロシアの女流作曲家グバイドゥーリナにも作品を委嘱しており、箏(こと)などを独奏楽器に用いた《イン・ザ・シャドー・オブ・ザ・トゥリー》は、デュトワの指揮で4月から5月にかけて行ったアメリカ演奏旅行と、それに先立つ第1378回定期公演で披露している。また、NHK教育テレビ40周年を記念した、カナダとの国際共同製作テレビ番組『シャルル・デュトワの若者に贈る音楽事典』に、N響はモントリオール響とともに出演している。子どもたちにクラシック音楽の楽しさを伝えるこの10本シリーズの番組は、日本のみならず世界で好評を得たが、これもデュトワの存在なくしては成り立たない企画であった。

2000年、デュトワは6月と11・12月の2回登場して、ベートーヴェンの《交響曲第7番》(第1411回定期公演)、ストラヴィンスキー《春の祭典》(第1421回定期公演)をはじめとするオーソドックスなレパートリーに改めて向き合い、オーケストラの響きに磨きをかけた。外国人指揮者が邦人作曲家の作品を積極的に取り上げたのもこの年の特徴で、2月にはイヴァン・フィッシャーが猿谷紀郎の《FLAIR of the SEEDS》を(第1399回定期公演)、6月にはアラン・ギルバートが北爪道夫の《始まりの海から》を(第1409回定期公演)、デュトワが武満徹の《ノヴェンバー・ステップス》を(第1411回定期公演)、11月にはオリヴァー・ナッセンが近藤譲の《桑》(第1420回定期公演)を演奏している。

2月のスラットキンがバーバーを、4月のインバルがショスタコーヴィチを特集して取り上げるというプログラム・ビルディングの中で、世界最長老の朝比奈隆がこの年2回登場して、ブルックナーを集中して指揮している。5月の《交響曲第9番》、11月の《交響曲第4番》ともに、92歳の朝比奈が全霊を傾けた演奏で、聴衆の深い感動を誘った。朝比奈は翌2001年12月に逝去、これが最後のN響出演となった。

21世紀の幕開けである2001年1月の定期公演は、準・メルクルに3プログラムが委ねられた。第1424回定期公演でのヘンツェのオペラ《ヴィーナスとアドニス》日本初演は、コンサート形式とはいえ田中泯の舞踊を伴ったもので、きわめて刺激的なものであった。2月にはデュトワが"ベルリオーズ・シリーズ"の第1弾として《劇的交響曲「ロメオとジュリエット」》を取り上げている(第1428回定期公演)。また、6月にはN響がペンデレツキに委嘱していた《コンチェルト・グロッソ----3つのチェロとオーケストラのための》が完成し、デュトワの指揮、トルルス・モルク、ボリス・ペルガメンシコフ、ハンナ・チャンという豪華なメンバーで世界初演されている(第1438回定期公演)。

準・メルクルの指揮によるヘンツェのオペラ《ヴィーナスとアドニス》日本初演(舞踊:田中泯/桃花村、2001年1月11・12日、第1424回定期公演)
準・メルクルの指揮によるヘンツェのオペラ《ヴィーナスとアドニス》日本初演(舞踊:田中泯/桃花村、2001年1月11・12日、第1424回定期公演)

N響創⽴75周年(2001‒2002)

N響が創立75周年を迎えた2001年、東京交響楽団は創立55周年、日本フィルハーモニー交響楽団は創立45周年とそれぞれ節目を迎える一方で、30年以上にわたって活動してきた新星日本交響楽団が東京フィルハーモニー交響楽団と合併し、チョン・ミョンフンをスペシャル・アーティスティック・アドバイザーに迎えて新たな一歩を踏み出している。

また、N響のデュトワだけでなく、東京都交響楽団がガリー・ベルティーニを、読売日本交響楽団がゲルト・アルブレヒトを音楽監督や常任として擁するなど、世界的な指揮者が東京のオーケストラを磨き上げるべく、しのぎを削っている中で、日本のオーケストラの歴史を切り拓(ひら)いてきたN響に対する期待は、21世紀に入りますます高まる一方であった。N響創立75周年を祝う記念シーズンとなる2001年9月からの新楽期は、ひときわ充実したラインナップとなった。

楽団創立75周年記念公演と銘打ったものとしては、楽団結成記念日である10月5日と6日、音楽監督のデュトワ指揮によるオルフ《カルミナ・ブラーナ》をメインとした特別演奏会が開催された。オルフに先立って世界初演したのは、スイスの作曲家ロルフ・リーバーマンに委嘱した《モーツァルトの主題による変奏曲》だが、偶然にも作品番号は「75」であった。一方サヴァリッシュは、サントリーホール主催公演で、ホール開館15周年記念も兼ねたメンデルスゾーン《エリア》(サヴァリッシュはN響創立60周年の1986年に行われた第1000回定期公演でもこの作品を取り上げた)を演奏したほか、10月の第1443回定期公演は、「N響75周年・サヴァリッシュN響デビュープログラム」と題して初来日時の1964年にデビューした際とまったく同じプログラムとソリスト----リヒャルト・シュトラウス《ドン・フアン》、シューマン《ピアノ協奏曲》(ピアノ独奏は園田高弘)、べートーヴェン《交響曲第7番》----を指揮した。

「N響75周年・サヴァリッシュN響デビュープログラム」(2001年10月26・27日、第1443回定期公演)
「N響75周年・サヴァリッシュN響デビュープログラム」(2001年10月26・27日、第1443回定期公演)

そして12月の定期公演には、音楽監督デュトワとスウェーデン放送合唱団の組み合わせで、ハイドンの《オラトリオ「天地創造」》(第1448回定期公演)とベルリオーズの《オラトリオ「キリストの幼時」》(第1449回定期公演)が取り上げられた。とりわけベルリオーズは、デュトワの真骨頂が発揮された、記念の名にふさわしい祝祭的かつ感動的な公演となった。また、75周年記念の委嘱作品である細川俊夫の《オーケストラのための「海からの声」》は、2002年2月の第1456回定期公演でデュトワによって世界初演されている。

2001年9月の準・メルクルと広上淳一、2002年1月のパーヴォ・ヤルヴィ、5月のアラン・ギルバートと、次の世代を担う実力派指揮者に活躍の場を与える一方で、2001年11月のイタリア・オペラの名匠ネルロ・サンティ、2002年4月のスクロヴァチェフスキというベテラン指揮者を配したバランスも絶妙で、これも音楽監督デュトワの存在あってこそ、こうしたラインナップが実現したのであろう。

21世紀に差しかかるこの時期、N響にはさまざまな変化の胎動が生じつつあった。デュトワとの蜜月が続く一方、将来への布石というべき世界的な指揮者が次々に客演している。たとえば2000年10月には、世界的なピアニストで指揮者でもあるウラディーミル・アシュケナージを定期公演に初招聘(しょうへい)し、アシュケナージが作曲者に委嘱したラウタヴァーラの《ピアノ協奏曲第3番》の弾き振りを含む2プログラムを指揮した。そして2001年7月のサントリーホールN響名曲シリーズでは、ファビオ・ルイージがはじめてN響の指揮台に立ち、ブルックナーの《交響曲第7番》を取り上げている。

また、2002年1月のN響定期には、俊英パーヴォ・ヤルヴィが初登場している。当時39歳、名指揮者ネーメ・ヤルヴィを父に持ち、すでに世界的なキャリアを積んでいたパーヴォは、2001年からはアメリカ・シンシナティ交響楽団の音楽監督の座にあったが、プロコフィエフの《交響曲第5番》、シベリウスの《交響曲第5番》、シューマンの《交響曲第1番》をメインにした3プログラムを指揮して、楽団員、聴衆の双方から喝采を浴びた。

パーヴォ・ヤルヴィ(2002年1月11・12日、第1451回定期公演)
パーヴォ・ヤルヴィ(2002年1月11・12日、第1451回定期公演)

2002年2月20日の第1456回定期公演は、1927年2月20日の新響第1回予約演奏会から75周年の記念日であり、デュトワの指揮でN響が委嘱した細川俊夫の《海からの声》が世界初演された。この年は日韓共催ワールドカップの年だったが、N響も5月にデュトワ指揮で韓国公演を挙行。韓国からはドミートリ・キタエンコ指揮KBS交響楽団が日本を相互訪問している。デュトワとの海外公演は、これまでのN響では考えられない頻度で行われており、2001年8月にはヨーロッパのルツェルン音楽祭、ラインガウ音楽祭、コンセルトヘボウ・サマーフェスティバル、ロンドンBBCプロムスを巡演。2002年3月にはアジアツアーを行い、香港、シンガポール、クアラルンプールを訪れている。

そして、N響75周年を祝うシーズンのフィナーレにあたる2002年6月の定期には、N響とともにその長い音楽人生を歩んできた偉大なマエストロ、朝比奈隆が指揮台に立つはずであった。1927(昭和2)年2月、近衛秀麿が指揮する新交響楽団(現在のN響)の第1回定期公演を聴いて感激し、音楽の道を志した朝比奈が、初めてN響の指揮台に立ったのは1940(昭和15)年1月のことだった。終戦後の1947年に関西交響楽団(のちの大阪フィルハーモニー交響楽団)を結成し、終生その音楽総監督・常任指揮者の地位にあった朝比奈にとって、N響は常に仰ぎ見る目標であり、心からの憧れでもあった。1997年3月定期に客演してブルックナーの《交響曲第8番》を指揮した際、楽団員から贈られたメッセージカードを、朝比奈はずっと手帳に挟んで胸ポケットに入れていた。人生の最後にN響と相思相愛になれたことは、大きな誇りだったのである。2001年12月29日に93歳でその生涯を閉じた朝比奈の代役には、ハインツ・ワルベルクが迎えられた。

デュトワの注目公演としては、2002年9月の第1466回定期公演におけるシマノフスキ《スターバト・マーテル》と《歌劇「ロジェ王」》の日本初演、同年12月のベルリオーズ《レクイエム》が目を引く。また、2002年10月定期公演は、1993年の初共演以来きわめて良好な関係にあったロシアの巨匠、エフゲーニ・スヴェトラーノフが客演する予定だったが、同年5月3日にモスクワで逝去したため(享年73)、プログラムを変更せずにヨアフ・タルミが代役を務めた。N響に心底惚(ほ)れ込み、「自分の欲しい音を出してもらえる。私は幸せだ、この楽団の常任指揮者になりたい」と公言して憚(はばか)らなかったマエストロの早過ぎた死に、多くの楽団員が悲しみに暮れた。

同年11月20・21日の第1474回定期公演にはワレリー・ゲルギエフが客演して、チャイコフスキーの《交響曲第3番》とストラヴィンスキーの《春の祭典》を取り上げたが、続いて11月24日にはキーロフ歌劇場管弦楽団とN響の合同演奏会が行われ、チャイコフスキーの《弦楽セレナード》とショスタコーヴィチの《交響曲第7番》が巨大な東京国際フォーラムのホールAに鳴り響いた。

デュトワからアシュケナージへ(2003-2004)

2003年のトピックスとしては、3月から4月にかけてN響がはじめて新国立劇場のピットに入ったことが挙げられる。1997年秋に開館した新国立劇場は、専属のオーケストラを置かず、東京フィルが年に9か月、東京交響楽団が年に3か月担当することを基本としていたが、N響とつながりの深い準・メルクルが2001年から(のちに「トーキョー・リング」と呼ばれる)ワーグナーの《ニーベルングの指環》を4年がかりで指揮した際、第2夜《ジークフリート》からN響に交代することになり、第3夜《神々のたそがれ》も引き続きN響が担当した。また、同年4月には、N響の社会貢献活動の一環として「N響アカデミー」が設立されている。これは、オーディションで選抜された若手のアーティストが、楽員からのレッスン、リハーサルや公演の参加などを通じて研鑽(けんさん)を積むもので、修了生はN響をはじめ国内外のオーケストラで活躍している。

そして、音楽監督のシャルル・デュトワは、2003年夏のシーズン終了をもって音楽監督を退くことが決まっており、4月にはその総仕上げとなるヨーロッパ公演が行われた。ロシア(サンクトペテルブルク、モスクワ)、オーストリア(ウィーン)、ドイツ(ミュンヘン、ベルリン)の3か国5都市で開催され、とくに43年ぶりに訪問するロシア公演は、日本外務省の「ロシアにおける日本文化フェスティバル2003」に位置付けられたものだった。ベートーヴェンの《ピアノ協奏曲第1番》のソリストはマルタ・アルゲリッチが予定されていたが、急病のためロシア公演はミハイル・プレトニョフ、オーストリアとドイツ公演はラルス・フォークトが受け持ち、ムソルグスキー(ラヴェル編)の《展覧会の絵》、ベルリオーズ《幻想交響曲》、武満徹《セレモニアル》(笙(しょう)は宮田まゆみ)という十八番の曲目で現地の聴衆をうならせた。

デュトワの音楽監督としての最終公演となったのは、2003年6月定期公演のリヒャルト・シュトラウスの歌劇《エレクトラ》演奏会形式上演であった。終演後の楽団員とのレセプションパーティには、2004年9月から音楽監督に就任するウラディーミル・アシュケナージも駆けつけて、和やかな雰囲気でバトンタッチがなされた(そのアシュケナージは、6月にオーチャード定期でオール・ラヴェル・プログラムを指揮したのちN響とレコーディングを行っている)。デュトワには楽団から名誉音楽監督の称号が授与され、現在に至るまで良好な関係が続いている。

音楽監督不在の2003年から2004年にかけてのシーズンは、定期公演に若手指揮者が多数抜擢(ばってき)され、日本人は阪哲朗、岩村力、飯森範親、広上淳一、外国人はシュテファン・ザンデルリング、マッシモ・ザネッティ、マルク・アルブレヒトなどが指揮台に立った。一方ではベテラン勢も気を吐いており、2004年2月の定期ではN響の常連で、実に17回目の定期公演出演となるハインツ・ワルベルクが登場。80歳を記念し、1966年の初来日時のプログラムを再現した「ワルベルクN響デビュー・プログラム・シリーズ」と銘打って、ヨハン・シュトラウスの夕べと、ヒンデミットの交響曲《画家マチス》などをメインにした2プログラムが披露された。また、2004年4月には、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキが定期3公演全てを「オール・ベートーヴェン・プログラム」として指揮している。

2004年9月から音楽監督に就任するアシュケナージは、7月にN響とのヨーロッパ・ツアーを敢行した。5都市でショスタコーヴィチ《交響曲第5番》、ベートーヴェン《交響曲第4番》をそれぞれメインとする2プログラムを指揮、各地でスタンディング・オベーションを受けるなど幸先のよいスタートを切った。

アシュケナージ音楽監督就任記念の定期公演は10月に行われ、10月15・16日の第1523回定期公演ではシューマン《ピアノ協奏曲》(ピアノ:エレーヌ・グリモー)とリヒャルト・シュトラウスの《アルプス交響曲》、10月23・24日の第1524回定期公演ではチャイコフスキーの《交響曲第3番》と《第4番》を取り上げたほか、定期公演に先立つ10月9・10日にはサントリーホールで就任記念演奏会が開催され、オール・ベートーヴェン・プログラムとして《序曲「レオノーレ」第3番》、《交響曲第4番》、《交響曲第5番》が演奏された。

ウラディーミル・アシュケナージ(2004年10月15・16日、第1523回定期公演)
ウラディーミル・アシュケナージ(2004年10月15・16日、第1523回定期公演)

社会とのかかわり

老巨匠たちとの別れと社会貢献(2004-2005)

だが、新たな出会いがあれば別れもある。2月に80歳を祝ったばかりのハインツ・ワルベルクが9月29日に急逝した。1966年以来、N響を170回以上にわたって指揮した常連であり、筆者の個人的には、2002年6月に故・朝比奈隆の代役としてベートーヴェンの《交響曲第1番》と《第3番》を指揮した際の、心のこもった名演が忘れ難い。

そして、1964年以降、N響と最も深い関係にあった桂冠(けいかん)名誉指揮者のウォルフガング・サヴァリッシュは、体調不良で2003年の来日公演をキャンセルしていたが、2004年11月のN響定期公演に久々に登場した。初めて椅子に座って指揮するサヴァリッシュの姿を見て、音楽ファンも、楽団員も、これがマエストロとN響の最後の共演になるかもしれないことを察したに違いない。11月13・14日にNHKホールで行われた第1526回定期公演は、前半にハイドンの《交響曲第35番》と、ドイツの若きヴァイオリニスト、フランク・ペーター・ツィンマーマンをソリストに迎えたブリテンの《ヴァイオリン協奏曲》、後半にベートーヴェンの《交響曲第7番》というマエストロらしいプログラムだったが、このとき客席で聴いたベートーヴェンの、サヴァリッシュ渾身の、と表現するしかない重い響きと、私の隣の席にいた紳士が、演奏が終わると人目もはばからず男泣きしていたことをいまでも思い出す。ちなみにこの公演は、「2004年 最も心に残ったN響コンサート」のファン投票で断トツの1位に選ばれた。サヴァリッシュが世を去ったのは2013年のことだったが、結果的にはこの2004年11月の共演をもって、40年にわたるN響との歴史に幕が下りたのだった。

ウォルフガング・サヴァリッシュとの最後の共演(2004年11月13・14日、第1526回定期公演)
ウォルフガング・サヴァリッシュとの最後の共演(2004年11月13・14日、第1526回定期公演)

2005年のN響とアシュケナージの初仕事は、その前年、2004年10月23日に起こった新潟県中越地震の被災者を支援するチャリティーコンサートだった。アシュケナージはこの地震をNHKホールでの音楽監督就任記念定期公演の開演直前に体験しており、演奏が始まったあとも何回か余震を受けたため、動揺して指揮棒を自分の左手に刺すというアクシデントに見舞われていた(後半の曲目は指揮者なしで演奏)。そのためもあってか、アシュケナージは被災者に強い同情を寄せており、来日スケジュールを前倒しして1月8日のNHKホールにおけるチャリティーコンサートに出演、チケットはまたたく間に完売して、収益金は全額被災者のために寄付された。また、2005年1月は阪神・淡路大震災10年にあたり、19・20日の第1533回定期公演では、アシュケナージの指揮でモーツァルトの《フリーメーソンのための葬送の音楽》、《交響曲第29番》、《レクイエム》が取り上げられた。23日には神戸文化ホールで「阪神・淡路大震災10年追悼 N響神戸特別演奏会」が行われ、N響とアシュケナージは地元のプロ合唱団である神戸市混声合唱団とモーツァルト《レクイエム》を共演している。

アシュケナージとN響は、10月に2回目となるヨーロッパ公演を行った。ウィーンでは楽友協会(ムジークフェライン)の定期公演に日本の常設オーケストラとしては初めて出演している。ツアーで演奏したショスタコーヴィチ《交響曲第8番》やラヴェル《「ダフニスとクロエ」組曲 第2番》は、その直前の定期公演でも披露された。また、帰国直後の10月26・27日には、小澤征爾が10年ぶりにN響の指揮台に立ち、NHK音楽祭の「こどものためのプログラム」を指揮している。ベートーヴェン《交響曲第5番》、ガーシュウィン(マーカス・ロバーツ編)《ピアノ協奏曲ヘ調》(共演:マーカス・ロバーツ・トリオ)に加えて、千住明《日本交響詩》(NHK放送80周年記念委嘱作品・初演)という異色のプログラムで、放送でも大きな反響を呼んだ。

続く11月の定期公演は、9月になってからサヴァリッシュの来演がアナウンスされて、すでに発表済みの指揮者や演目を差し替えるという異例の態勢を取ったが、体調が整わず直前になって来日を断念している。

N響創立80周年(2006)

2006年は、N響創立80周年の節目であり、記念公演が相次いだ。

2月には音楽監督のアシュケナージが、2月20日の武満徹の没後10年となる命日に、N響80周年とサントリーホール20周年を祝う「武満徹メモリアルデー・コンサート」でピアノと指揮を受け持った。続く25・26日の第1562回定期公演では、スクリャービンの《交響曲第1番》と《プロメテウス(火の詩)》を色光ピアノつきで上演(色光ピアノ:井口真由子)している。また、4月の第1565回定期公演では、名誉音楽監督のデュトワがベルリオーズの《ファウストのごう罰》を取り上げ、6月25日にはアシュケナージの指揮、レオン・フライシャーのピアノで「N響創立80周年記念演奏会」が行われている。

さらに、9月の定期公演では、「N響創立80周年 正指揮者シリーズ」と銘打って、岩城宏之、外山雄三、若杉弘が揃い踏みして一公演ずつ受け持つことになっていたが、6月13日に岩城が没したため、岩城が指揮する予定だった第1576回定期公演は追悼公演となり、前半の武満徹《弦楽のためのレクイエム》、《テクスチュアズ》、黛敏郎《曼荼羅(まんだら)交響曲》を若杉が、後半のストラヴィンスキー《春の祭典》を外山が振り分けてその死を悼んだ。1960年代から1970年代にかけて、岩城は実質的にはN響の常任指揮者にあたる役割を果たし、そこでのさまざまな経験を踏まえて、1980年代以降、札幌交響楽団、オーケストラ・アンサンブル金沢を個性豊かな楽団に育て上げた。日本のオーケストラにおけるその功績は計り知れない。なお、このシリーズの第1574回定期公演では、N響の前身である日本交響楽団の専任指揮者だった尾高尚忠の《交響曲第1番》を外山が取り上げたが、長らく失われていた第2楽章を含む演奏であり、これが世界初演となった。

外山雄三(2006年9月2・3日、第1574回定期公演)
外山雄三(2006年9月2・3日、第1574回定期公演)
若杉弘(2006年9月8・9日、第1575回定期公演)
若杉弘(2006年9月8・9日、第1575回定期公演)

続く10月定期公演にはアシュケナージが登場し、第1577回定期公演では80周年とショスタコーヴィチ生誕100年を記念して《ヴァイオリン協奏曲第1番》(ヴァイオリン:ボリス・ベルキン)と《交響曲第10番》が演奏された。またこの年は、6月の韓国、10月のアメリカと、アシュケナージの指揮で2回にわたり海外公演が行われている。

プレヴィンとの出会い(2007-2011)

2007年は、4月から6月までサントリーホールが休館となったため、Bプログラムの定期公演を休止し、上野の東京文化会館で特別シリーズが行われた。1973年にNHKホールが開館するまでN響の定期公演は東京文化会館を会場としていたので、オールドファンにとっては懐かしさを感じたことだろう。この年、名誉音楽監督のデュトワは1月に登場。8月をもって任期満了となる音楽監督のアシュケナージは2月と6月に登場した。6月の第1596回定期公演でチャイコフスキーの《マンフレッド交響曲》を取り上げ、念願だったチャイコフスキーの全交響曲演奏を成し遂げたアシュケナージは、ほかにもショスタコーヴィチ、ベートーヴェンの交響曲に力を注ぐなど、3年間の任期中に一定の成果を挙げたものの、前任者のデュトワがN響を徹底的に鍛え上げ、演奏能力、レパートリーの面で、世界のメジャー・オーケストラの仲間入りをする、という明確な目標を掲げて躍進したことと比較すると、目指すものがやや見えづらかったことは、残念ながら否定できないだろう。

逆に言えば、デュトワ時代に楽団のポテンシャルが飛躍的に高まってしまったがゆえに、後任は誰がなったとしても、聴衆や内外の音楽関係者が納得できる成長戦略がかえって描きづらくなってしまったのかもしれない。アシュケナージは2007年9月に桂冠指揮者の称号が贈られ、その後も良好な関係を続けていったが、N響は結果的に2007/08と2008/09の2シーズンにわたって、シェフ不在での運営を余儀なくされる。

N響にとって幸いだったのは、アシュケナージ音楽監督退任直後の2007年9月の定期公演に、アンドレ・プレヴィンが客演したことであろう。1993年の初顔合わせ以来、1995年、1998年、1999年と共演を重ねていたが、8年ぶりの登場となった今回、Aプログラムのオール・モーツァルト・プログラム、Bプログラムのラフマニノフ《交響曲第2番》、Cプログラムのオール・ラヴェル・プログラムで聴衆と楽団員双方から熱い支持を受けた。

アンドレ・プレヴィン(2007年9月8・9日、第1598回定期公演)
アンドレ・プレヴィン(2007年9月8・9日、第1598回定期公演)

また、11月の第1604回定期公演でプッチーニの《歌劇「ボエーム」》全曲を演奏会形式で取り上げたイタリアの名匠ネルロ・サンティは、2001年にN響へ初客演して以来、2003年から毎年招かれており、楽団からの信頼度が伺えよう。12月の1609回定期公演には下野竜也が初登場して、クリスマスにちなんでフンパーティングの《歌劇「ヘンゼルとグレーテル」》から〈前奏曲〉と〈夕べの祈り〉〈夢のパントマイム〉を前後に配し、プフィッツナーの《ヴァイオリン協奏曲》(独奏:ライナー・キュッヒル)とリヒャルト・シュトラウス《死と変容》を間に挟むという凝ったプログラムを聴かせた。

2008年7月、名誉指揮者で長らく闘病中だったホルスト・シュタインが逝去。9月の新シーズン開幕公演にあたる第1625回定期公演では、ハンス・ドレヴァンツがシュタインを追悼するバッハ《アリア》を献奏した。12月の定期公演はデュトワが3公演とも指揮台に立ち、第1634回定期公演ではストラヴィンスキーの《バレエ音楽「ミューズの神を率いるアポロ」》と《オペラ・オラトリオ「エディプス王」》が取り上げられ、俳優の平幹二朗が語り手をつとめている。

明けて2009年、2月の第1640回定期公演に初登場したのは、チェコの老匠ラドミル・エリシュカである。1931年生まれのエリシュカは当時77歳、西側ではまったく知られない存在だったが、プラハ芸術アカデミーでは指揮科主任教授としてヤクブ・フルシャなどを育てた重鎮で、2004年にようやく初来日を果たし、2008年には札幌交響楽団の首席客演指揮者に就任していた。N響ではスメタナの《わが祖国》全曲を指揮してセンセーショナルな成功を収め、この年の「最も心に残ったN響コンサート」第1位に選ばれている。この大成功をきっかけに全国のオーケストラから招かれ、2017年に引退するまで目覚ましい活躍を遂げたが、この「エリシュカ旋風」と呼ぶべき現象は、わが国の音楽ファンが知名度ではなく、耳と心で感じた音楽を評価し、熱狂したという点において特筆すべき出来事であった。

デーヴィッド・ジンマン、ドミートリ・キタエンコ、カルロ・リッツィ、エド・デ・ワールト、ジョナサン・ノット、準・メルクル、尾高忠明、下野竜也など多彩な指揮者陣で2009年の上半期を乗り切ったN響は、同年9月にアンドレ・プレヴィンを首席客演指揮者に、2010年1月には尾高忠明を正指揮者として迎えている。2009年7月には正指揮者の若杉弘、2010年1月には名誉指揮者のオットマール・スゥイトナーが逝去しており、この時期のN響は指揮者陣が大きく変わりつつある時期であった。

プレヴィンは指揮のみならずピアニストとして楽団員と室内楽の公演でも共演するなど、2012年8月の任期満了まで3年間にわたり、実質的にはN響の常任指揮者に近い役割を果たしていく。

10月の就任披露公演では、Aプログラム(10月17・18日、第1655回定期公演)がリーム《厳粛な歌》、名歌手フェリシティー・ロットを迎えてのリヒャルト・シュトラウス《歌劇「カプリッチョ」》から〈最後の場〉と《家庭交響曲》、Bプログラム(同28・29日、第1657回定期公演)がオール・モーツァルト・プログラムで《交響曲第38番「プラハ」》、《第39番》、《第40番》、Cプログラム(10月23・24日、第1656回定期公演)では2008年に発表した自作の《オウルズ》日本初演、モーツァルト《ピアノ協奏曲第23番》(ピアノ:池場文美、グラーツ国立音楽大学教授でアンネ・ゾフィ・ムターの伴奏者も長らくつとめてきた)、ショスタコーヴィチ《交響曲第5番》と、プレヴィンの音楽家としての全体像が一望できるかのような曲目が並んだ。

とくにモーツァルトは、1993年の初共演以来欠かさず取り上げているだけに、絶品というべきもので、《第41番》を除いた「3大交響曲」というところにも、プレヴィンのこだわりが感じられた。

プレヴィンの登場はこの1回だけだったが、この2009/10シーズンは指揮者陣の核を得たことで、9月にN響初共演となるクリストファー・ホグウッド、11月におなじみイタリアの名匠ネルロ・サンティ、12月に名誉音楽監督のシャルル・デュトワ、2月に同じくN響初共演のセミョーン・ビシュコフ、4月に名誉指揮者ヘルベルト・ブロムシュテット、5月にはこの1月にN響正指揮者の称号を受けた尾高忠明と、読売日響正指揮者で次代を担う下野竜也、6月に桂冠指揮者ウラディーミル・アシュケナージと、本来のN響らしさを取り戻したラインナップとなった。マーラーの生誕150年を記念したブロムシュテットによる《交響曲第9番》(第1670回定期公演)とアシュケナージによる《交響曲第6番》(第1678回定期公演)をはじめ、デュトワによるヤナーチェク《グラゴル・ミサ》(第1662回定期公演)、デュトワによる《交響曲第11番》(第1663回定期公演)とビシュコフによる《交響曲第1番》(第1667回定期公演)のショスタコーヴィチ、ブロムシュテットによる《交響曲第5番》(第1672回定期公演)と尾高による《交響曲第7番》(第1674回定期公演)のブルックナーなど、選曲にも勢いが感じられるようになってきた。

2010/11シーズンは、9月のオープニングを大ベテランのネヴィル・マリナーがつとめた。2007年にN響と28年ぶりに共演して好評だったため、すでに86歳という高齢をおして再客演したもので、シューマンの生誕200年を記念したオール・シューマン・プログラム(第1681回定期公演)でその本領を発揮した。10月はネルロ・サンティがヴェルディの歌劇《アイーダ》全曲を演奏会形式で取り上げた(第1682回定期公演)。主要なキャストをイタリアから招いた豪華版で、大曲だけに金曜日の開演時間を1時間くり上げて18時からにする異例の態勢をとった。

11月にはプレヴィンがAプログラム(第1685回定期公演)だけを指揮したが、ガーシュウィンの《ピアノ協奏曲ヘ調》を弾き振りするというファン垂涎(すいぜん)の企画は大きな話題を呼んだ。

明けて2011年。2月定期公演には、2008年以来3年ぶりにチョン・ミョンフンが登場し、マーラー没後100年を記念して《交響曲第3番》が演奏された(第1695回定期公演)。3月にはプレヴィンとの北米ツアーを控えており、楽団員の士気も高まる中で、2011年3月11日午後2時46分、日本はかつてない災禍に見舞われる。のちに「東日本大震災」と呼ばれるマグニチュード9.0大地震が発生したのである。

岩野裕⼀(いわの・ゆういち)

音楽評論家。株式会社実業之日本社代表取締役社長。公益社団法人日本オーケストラ連盟理事。同日本演奏連盟理事。著書に『王道楽土の交響楽 満州──知られざる音楽史』(第10回出光音楽賞受賞)、『朝比奈隆 すべては「交響楽」のために』、共著書に『日本のピアノ100年』(第18回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞受賞)など。

※本記事は2026年4月10日に公開しました




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