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2022年5月31日

 

SPOTLIGHT  
2022年6月池袋A/池袋Cプログラム

 

定期公演で採り上げる作曲家や楽曲にさまざまな側面から迫るこのコーナー。 今回は、2022年6月池袋Aプログラムと池袋Cプログラムで演奏されるフランス音楽とアメリカ音楽の魅力やその背景を探ります。
フランス・バレエ文化に詳しい永井玉藻さんが紹介するのは、 20世紀初頭パリのバレエをめぐる人間関係とさまざまな場面。
指揮を務めるステファヌ・ドゥネーヴさんには、音楽評論家の博多かおるさんによるインタビューで、この2つのプログラムに組み込んだねらいと、その聴きどころを存分に語っていただきました。

 

 

[寄稿]
20世紀初頭のパリにもたらされたバレエ文化の繁栄
――プーランクとディアギレフと

永井玉藻

 

「バレエ育ての地」の衰退

バレエは「イタリアで生まれ、フランスで育ち、ロシアで完成した芸術」と言われる。17世紀半ばからバレエ文化を発展させてきたフランスに代わり、19世紀後半以降にバレエ界の一大中心地となったのがロシアだった。では、19世紀の末頃の「バレエの育ての地」フランスは、どのような状況だったのだろうか。
フランスにおけるバレエ文化は、1832年に初演された《ラ・シルフィード》や、1841年初演の《ジゼル》などに代表されるようなロマンティック・バレエの名作によって、19世紀半ばに黄金期を築いた。その流れを牽引し、フランス・バレエの頂点に輝いていたのが、パリ・オペラ座である。しかし、ロマン主義の衰退とともにロシアへとバレエの中心地が移ったのち、パリのバレエ・シーンはこれといった話題に乏しい状態に陥っていた。特に世紀末のパリ・オペラ座は、バレエの上演回数も少ないうえに同じ作品が繰り返されるような始末で、目新しさに欠けた。また、フランスのオペラでは伝統的にバレエ・シーンが組み込まれていた一方、バレエ作品のみで公演を行うことは極めて珍しかった。そのため、19世紀末のパリにおけるバレエ文化は、オペラとは比べ物にならないほどの貧弱な状況だった。

 

19世紀末〜20世紀初頭のパリ・オペラ座

 

ディアギレフがもたらした再隆盛

セルゲイ・ディアギレフ(1910年)
 

そうしたパリのバレエ界の状況を劇的に転換したのは、フランスから見れば「ヨーロッパの田舎」であるロシアからやってきた「バレエ・リュス」(ロシア・バレエ団)と、その興行主、セルゲイ・ディアギレフである。
貴族階級出身のディアギレフは、もとは帝室劇場の幹部職として仕事をしていた。しかし、独創性に満ちた彼の発想が次第に劇場の方向性と合わなくなり、ディアギレフは半ば強引に劇場から解雇されてしまう。そこで彼はオリエンタリスムが流行するパリに活躍の糸口を見つけ、1906年からロシアの絵画や音楽、オペラ、そしてバレエを紹介していったのである。
当初のバレエ・リュスは、西ヨーロッパの観客にも親しみやすい、ロマンティック・バレエを思わせるような作品を上演していた。ロココの時代を舞台とする《アルミードの館》や、ショパンの楽曲とともに空気の精と詩人が踊る《風の精(レ・シルフィード)》などは、その代表例である。だが、ディアギレフはしだいに自らのオリジナリティ、つまりロシア的な側面を強く打ち出していく。ヴィヴィッドな色彩の舞台装置や衣装、異国情緒をかもし出すストーリー、鍛え抜かれたダンサーたちが繰りだす高難度の技巧──オペラの添え物としてのバレエに慣れきっていたパリの人々には、そのすべてが新鮮に映った。
さらにディアギレフは、ベテラン・若手・無名の別を問わず、目をつけた作曲家たちに声をかけ、バレエ・リュスが上演する新作のために音楽を提供してくれるよう、交渉を行った。バレエ・リュスとディアギレフに直接的・間接的に関わった作曲家たちは実に多く、ストラヴィンスキーやプロコフィエフといったロシアの作曲家はもちろん、フランスのドビュッシー、ラヴェル、サティ、デュカス、フロラン・シュミットや、「フランス6人組」のメンバーなど、当時の気鋭の顔ぶれが見事に揃う。「天才を見つけ出す天才」と言われたディアギレフは、作曲家だけでなく、さまざまな芸術分野で新しい地平を切り開くアーティストを発掘し、仕事をさせることにおいて、抜群の感覚を持っていた。

 

プーランクとディアギレフの出会い

20世紀に活躍した作曲家であるプーランクも、そのディアギレフの嗅覚がとらえたひとりである。1899年、邸宅の立ち並ぶパリ8区で、薬品製造会社副社長の父と音楽愛好家の母のもとに生まれたプーランクは、幼少期からひんぱんにオペラやコンサートに通っていた。また、彼は文学や絵画にも早い時期から興味を持ち、少し大人になると、オデオン通り7番地にあったアドリエンヌ・モニエの書店「本の友の家」に出入りするようにもなった。この書店で、プーランクはその常連たち──ファルグやジョイス、マックス・ジャコブ、アポリネール、ポール・クローデル、ブルトン、エリュアール、ルイ・アラゴンなど──に出会い、彼らの話し声や自作の朗読を聞いた。

 

22歳ころ(1921年ころ)のフランシス・プーランク
 

 

バレエも、青年期のプーランクが興味を抱いた対象だった。しかも、彼が後年まで強い印象を持って語ったのが、バレエ・リュスの作品である。本人いわく、「家庭で受けた教育はとても自由なものだった」ため、プーランクは14歳の時にシャンゼリゼ劇場で行われたストラヴィンスキー《春の祭典》の上演に出向いて、その音楽と振付に夢中になった。

 

ストラヴィンスキー《春の祭典》初演時の舞台より(1913年)

 

1917年初演の《パラード》(サティ作曲、ピカソ演出)にも、「完全にまいってしまった」。10代から20代の多感な時期に、パリ中を沸かせた綺羅星のような作品の数々を体験したプーランクは、そう遠くない将来に、ディアギレフから新作バレエの音楽を委嘱されることなど、よもや想像もしなかっただろう。

 

プーランクがディアギレフに出会ったのは、1919年、ディアギレフの援助者だったミシア・セール(当時はエドワーズ姓)の家でのことだと考えられている。希代の興行主と駆け出しの作曲家とのあいだに、どのような会話があったのかは不明だが、プーランクはディアギレフの「寛容さ」に対して感謝を伝えたいと思ったようだ。しかし、芸術家の大パトロンであるミシアにディアギレフの住所を尋ねるのは気が引けたのか、プーランクはすでに知己を得ていたピカソにディアギレフの住所を聞き、手紙を書いた。その中で若き作曲家は、振付作品の作曲に挑戦する意欲を顕示して見せたのである。
この時点で、プーランクはまだオーケストラのための楽曲を書いたことがなく、そもそも作曲家としての公式デビューからも2年しか経っていなかった。しかし、彼はディアギレフに「我々ができそうなこと」について、バレエ・リュスの振付家、レオニード・マシーンと連絡を取りたい、と書き送ったのだった。その想いが具体的な形になるまでしばらく待つことにはなったものの、プーランクはバレエ《牝鹿》によって、最初の大きな成功を収めることになる。

 

左:「フランス6人組」を描いた絵画 右から2人目がプーランク。右端はジャン・コクトー

右:バレエ「パラード」のパブロ・ピカソによる衣装(1917年)

左:「フランス6人組」を描いた絵画 右から2人目がプーランク。右端はジャン・コクトー

右:バレエ「パラード」のパブロ・ピカソによる衣装(1917年

 

その後、バレエ・リュスやそのライバル的存在となったバレエ・スエドワ(スウェーデン・バレエ団)、ディアギレフから離れ個人でバレエ団を組織したアンナ・パヴロワ、イダ・ルビンシュテインたちの活動によって、パリのバレエ界は徐々に勢いを増していった。また、1914年にパリ・オペラ座の総裁になったジャック・ルーシェは、ディアギレフと不仲になったアーティストたちをオペラ座に迎えて、レパートリーの刷新を行った。
19世紀後半にバレエ界の中心の座をロシアに譲り渡したフランスだが、20世紀はじめには、《牡鹿》をはじめとする新しい潮流のバレエ作品によって、再び華やかな時代を取り戻していく。そしてさらに、20世紀をかけてバレエ文化そのものも、世界中を席巻するように一大芸術分野として結実していくのである。

 

 

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[インタビュー]
ステファヌ・ドゥネーヴ(指揮)に聞く
2つの「革命」―20世紀初頭のフランス音楽を変えたバレエとジャズ

ステファヌ・ドゥネーヴ(指揮)

 

2015年、2019年に続き、2022年6月定期公演にN響と3度目の共演で登壇するステファヌ・ドゥネーヴ。20世紀初頭フランス音楽の躍動感に満ちたAプログラム、プーランクの異なった顔がのぞく2曲とガーシュウィンの交響詩からなるCプログラム、2公演に秘められた狙いはどんなものなのか、マエストロにうかがいました。

 

聞き手・構成:博多かおる

 

― 今回の2つのプログラムでは、フランス近代音楽に影響をもたらした要素に焦点を当てているように感じます。

実は両方のプログラムに「革命」というタイトルをつけてもいいと思っています。Aプログラムではバレエが音楽にもたらした革命、Cプログラムではジャズが音楽にもたらした革命を表現したいと考えています。第1次世界大戦前のベル・エポック期(「古き良き時代」の意味。19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパで、文化的・社会的発展を謳歌できた時代を指す)に、バレエと音楽の関係は根本的に変わりました。ディアギレフ率いるバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)が若い音楽家を登用し、それまでのクラシック・バレエとは違った音楽とダンスの関係を切り拓いていったのです。

 

― Aプログラムではその重要な場面が再現されるわけですね。

《春の祭典》初演の日付、1913年5月29日は音楽の歴史を変えた日として人々の記憶に刻まれています。しかし、その1年前の1912年4月22日、パリのシャトレ座で重要な出来事があったことを忘れてはなりません。ダンディの《イスタール》(バレエ版)、ラヴェルの《優雅で感傷的なワルツ》(バレエ『アテライード、あるいは花言葉』のために作られた同名ピアノ曲の管弦楽版)、デュカスの《ペリ》、フロラン・シュミットの《サロメの悲劇》(バレエ版)が演じられました。想像してみてください、4人の作曲家が自作を指揮し、ナターリャ・トゥルハノヴァが斬新な振りつけで踊り、音楽とダンスの関係を完璧に変えたこの夜を。そこには当時流行していた異国趣味の味わいもまたありました。
今回のAプログラムにはこの1912年のシャトレ座のコンサートから2つの作品を入れ、1912年当時の雰囲気を再現したいと思っています。

 

― 異国趣味漂う作品が描くさまざまな土地への空間的な旅と、19世紀初頭への時間的な旅を同時に体験できるのですね。

そうです、想像力がその旅の鍵を握っています。ラヴェルの《シェエラザード》は想像の翼でアジアへ旅立とうとするかのような美しい作品です。19世紀末のマスネの《エロディアード》(1881年初演)からプッチーニの《トゥーランドット》(1926年初演)までの約半世紀にわたり、ヨーロッパの音楽は東洋の魅惑を表現し続けました。ドビュッシーの《海》も葛飾北斎のすばらしい浮世絵から着想を得ています。ステファニー・ドゥストラックとは、シュトゥットガルト放送管弦楽団と《シェエラザード》を録音しました。N響との今回の共演でもそうした想像力を表現したいのです。

 

― この時期のフランス音楽と文学の深い関係も感じられますね。

19世紀末から20世紀初頭にかけてのフランスでは、音楽、文学、美術、舞踏などは互いに深い影響を与えあっていました。たとえばマラルメの詩からインスピレーションを受けたドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲》は管弦楽曲として作曲されましたが、ニジンスキーが有名なバレエに仕立て上げました。また、《サロメの悲劇》はロベール・デュミエールの詩にもとづいており、デュカスが《ペリ》のために書いたすばらしい舞踊詩は物語を語っています。どの曲も物語性を持ち、視覚的で、香り高く、ボードレールの詩『万物照応(コレスポンダンス)』にあるように「香りと色と音が応えあって」いると私は思います。

 

― そして、Cプログラムでは20世紀初頭のパリに衝撃を与えたジャズによる音楽革命がテーマなのですね。

私の愛するプーランクもジャズの要素を《牝鹿》に取り込みました。第6曲〈ラグ・マズルカ〉にそれは明らかですが、《牝鹿》は全曲を通して18世紀の宮廷を思わせるネオ・クラシック調の音楽と、ジャズの要素が混ざり合う興味深い作品です。若きプーランクのみずみずしい感性、フランスの「狂騒の20年代」の雰囲気が感じられます。感染症拡大や戦争の起きている今の状況が1日も早く解決して、私たちにもこんな軽やかな新しい時代が到来することを祈っています。

 

― 正反対の印象のあるプーランクの《牝鹿》と《オルガン協奏曲》はジャズの要素でつながっているのですか?

プーランクには2つの人格、世俗的でいたずらっぽい面と、敬虔で思索的な面があります。《オルガン協奏曲》は《牝鹿》より10年以上後に書かれ、バッハにも通ずる側面もあり、作曲家の信仰心が感じられる精神性の高い作品です。しかし、そこに官能的なリズムやシンコペーションが混ざり、時々ジャズが顔をのぞかせます。ジャズに特有の9度や11度の和音も取り込まれています。《牝鹿》がプーランクの快楽的な面を、《オルガン協奏曲》が彼の精神的な深さを体現しているとしても、ガーシュウィン《パリのアメリカ人》と対置させることで明らかになる2作品の特徴は、ジャズの和音やリズムなのです。

 

― バッハ的な要素以外に、プーランクが愛したモーツァルト的な側面については、これらの曲にはあるのでしょうか?

プーランクは「シャンゼリゼのモーツァルト」と呼ばれていました。モーツァルトの作品では長調の明るさの中にも時に絶望があり、短調の絶望の中にも希望や光が射すことがあります。プーランクも同じで、優しいノスタルジーの中に悲しみがにじんだり、その逆だったりする。そういう両義性を味わっていただければと思います。

 

― そして《パリのアメリカ人》では新しいジャズの言語と交響曲という既存の形式が出会うのですね。

ガーシュウィンは1926年にパリを訪れ、絵葉書に曲のテーマを書きつけました。タクシーのクラクションを持ち帰って作品の冒頭に使い、賑やかなパリの生活を表現しました。ジャズを介して、当時のパリとアメリカの交流を表現したのです。アメリカ人が夢見た1920年代のパリへ連れて行ってくれる交響詩として、《パリのアメリカ人》を演奏してみたいですね。ある種のタイムスリップ、パリを夢見るアメリカ人の脳を介したパリへの旅です。
古典的な音楽形式とパリにやってきたジャズとの関係を探るこのプログラムによって、コロナ禍が続くなかでなかなか自由に旅ができないところ、みなさまとともに想像の旅に出られるのを楽しみにしています。

 

 

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[公演情報]

第1959回 定期公演 池袋Aプログラム
2022年6月11日(土)開場 5:00pm 開演 6:00pm 
2022年6月12日(日)開場 1:00pm 開演 2:00pm
東京芸術劇場 コンサートホール

デュカス/バレエ音楽「ペリ」(ファンファーレつき)
ラヴェル/シェエラザード*
ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲
フロラン・シュミット/バレエ組曲「サロメの悲劇」作品50
指揮:ステファヌ・ドゥネーヴ
メゾ・ソプラノ:ステファニー・ドゥストラック*

 

第1960回 定期公演 池袋Cプログラム
2022年6月17日(金)開場 6:30pm 開演 7:30pm(休憩なし) 
2022年6月18日(土)開場 1:00pm 開演 2:00pm(休憩なし)
東京芸術劇場 コンサートホール

プーランク/バレエ組曲「牝鹿」
プーランク/オルガン協奏曲 ト短調
ガーシュウィン/パリのアメリカ人
指揮:ステファヌ・ドゥネーヴ
オルガン:オリヴィエ・ラトリー

 

 

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ステファヌ・ドゥネーヴ(指揮)
Paavo Järvi, conductor

ステファヌ・ドゥネーヴ(指揮)
1971年、フランス生まれ。現在、セントルイス交響楽団音楽監督、ブリュッセル・フィルハーモニック音楽監督を務める。パリ国立高等音楽院で指揮を学んだあと、パリ管弦楽団でゲオルク・ショルティ、パリ・オペラ座でジョルジュ・プレートル、サイトウ・キネン・フェスティバル(現セイジ・オザワ松本フェスティバル)で小澤征爾のアシスタントを務めて研鑽(けんさん)を積んだ。以後、ロイヤル・スコットランド・ナショナル管弦楽団音楽監督、シュトゥットガルト放送交響楽団首席指揮者、フィラデルフィア管弦楽団首席客演指揮者を経て現職に至る。ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団やバイエルン放送交響楽団、ニューヨーク・フィルハーモニック、クリーヴランド管弦楽団ほか、世界の主要オーケストラにたびたび客演するほか、英国ロイヤル・オペラやパリ・オペラ座などオペラの分野でも活躍する。レパートリーの中心となるのは母国フランスの音楽。レコーディングでもラヴェル、ルーセル、ドビュッシー、オネゲル、フランク、プーランクらの作品をとりあげ、ディアパゾン・ドール賞を受賞するなど高く評価されている。
N響とは2015年に初共演。2019年に続いて今回が3度目の共演となる。池袋Aプログラムはフランスのバレエ音楽を中心に据え、池袋Cプログラムではプーランクにガーシュウィンの《パリのアメリカ人》を組み合わせる。アメリカで活躍の場を広げるドゥネーヴにふさわしいプログラムだろう。
 
[飯尾洋一/音楽ジャーナリスト]