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2021年5月12日

パーヴォ・ヤルヴィ、井上道義、下野竜也が選んだ「今、聴いてほしい音楽」を聴く
―企画担当者による「NHK交響楽団 6月公演」(6/5、6、11、12)の聴きどころ

文・西川彰一(NHK交響楽団 演奏制作部長)

 

 

2020-21シーズンを振り返って

2020-21シーズンのN響はご存じの通り、1年間の定期公演休止という、100年近い歴史の中で前例のない、苦渋の選択を余儀なくされました。パーヴォ・ヤルヴィのマーラーやショスタコーヴィチ、ブロムシュテットの北欧&ドイツ・プログラム、待望の初共演となる予定だったマイケル・ティルソン・トーマス・・・。幻と消えた公演に思いをめぐらすたびに、悔み切れない感覚が残ります。振り返ればこの1年は、刻々と変わる状況に合わせながら、感染症対策と代替公演の企画締め切りに追われる毎日でした。

この間、海外アーティストの入国制限やステージ上のディスタンスの制約があって、N響の本領が発揮できる大編成の作品はあまり演奏できませんでしたが、結果的には予期せぬ収穫もありました。

その1つは、普段なかなかチャンスが作れない、若手音楽家との共演の場を多数持てたこと。指揮者でいえば、熊倉優、原田慶太楼、鈴木優人、三ツ橋敬子。ソリストでは藤田真央、松田華音、辻彩奈、横坂源、阪田知樹といった皆さんの躍進が光りました。N響にとっても、彼ら才能あふれるアーティストにとっても、この度の経験が将来の関係性の礎になり、ひいては日本の音楽界の発展に繋がることを願います。

今までN響と縁の薄かった鈴木雅明、大植英次が指揮台に立ち、記憶に残る名演を繰り広げたことも忘れられません。正指揮者・尾高忠明をはじめ、井上道義、広上淳一、下野竜也といったおなじみの指揮者陣も、安定感と独自の存在感を示しました。

レパートリーでいえば、小編成の作品を演奏することが、アンサンブルを見つめ直すきっかけになったと言えます。特に、弦楽合奏だけの曲をもう少し演奏したいという要望は、コロナ以前にも若手の弦のメンバーから挙がっていました。ウェーベルン《緩徐楽章》、コリリャーノ《航海》、G.ウォーカー《弦楽のための抒情詩》、武満《3つの映画音楽》等々、思い起こせばかなりの数に上ります。こんなマニアックな曲を頼んだ覚えはないという恨み節も聞こえてきそうですが・・・。

近年はモダン・オケの主要レパートリーから外れつつあるハイドンやモーツァルト、意外と演奏機会の少ないシューベルトに取り組めたことも、ドイツ音楽の伝統を継承するN響の未来に、プラスの作用をもたらすのではないかと期待しています。

今までなら当然のようにフル編成で演奏していた作品を10型や12型に減らした結果、こうしたサイズでも、やり方によっては満足度の高いサウンドを作れることが実証されました。これを機にN響も、作品のスタイルに合わせて弦の編成を自在に変えることが当たり前になっていくことと思います。

 

 

6月公演のテーマは「今、聴いてほしい音楽」

さて、本来であれば定期公演シーズンの締めくくりとなる6月は、首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィとともに、特別企画を含む3種類のプログラムをお送りする計画でしたが、入国制限緩和の見通しが立たないため、前の2週は井上道義、下野竜也のお2人をお迎えします。順調に行けば6月16, 17日には、来日後の2週間待機を済ませたパーヴォが、1年3か月ぶりにN響の指揮台に立つ予定です。

 

6月の共通テーマは「今、聴いてほしい音楽」です。正直なところ1か月先に、普段通りの演奏会が行えるのかどうか、まったく予想がつきません。当然ながら、コンサートどころではないという方も大勢いらっしゃるでしょう。反対にこういう時だからこそ、本格的なオーケストラの演奏を生で聴きたいという切実な声も、たとえ少数にせよ、あるはずです。N響は万全の準備を調えて、そうした声に応えていくつもりです。私たちにとってももちろん、音楽は決して不要不急ではないのです。

この一年、苦しいさなかのN響の活動を支えて下さった井上道義、下野竜也の両マエストロ、そして首席指揮者としてまもなく最後のシーズンを迎えるパーヴォ・ヤルヴィが選んだ「今、聴いてほしい音楽」。渾身のプログラムと演奏を、皆様にお届けします。

 

 

日本社会を覆う閉塞感に突破口を開ける井上道義のベートーヴェン
― 6/5(土)& 6(日)サントリーホール ―

6月5日(土)6:00pm 
6月6日(日)2:00pm

サントリーホール

指揮:井上道義
シベリウス/交響曲 第7番 ハ長調 作品105
ベートーヴェン/交響曲 第3番 変ホ長調 作品55「英雄」

 

6月5、6日の指揮は井上道義。交響曲の歴史に転機をもたらした、2つの革新的なシンフォニーをお送りします。

井上道義がイメージするベートーヴェン、それは決して「楽聖」として崇められるような、神格化された存在ではありません。周囲と衝突を繰り返す、遠慮などゼロの人。井上さんいわく「きっと嫌な奴だったに違いない。でも書かれた作品は文句なしにすばらしい」

徹頭徹尾もがき苦しみ、その苦闘の末に生み出されたものが芸術作品として結実した、それがベートーヴェンの音楽だというのです。

考えてみればこれは、指揮者・井上道義の生き方にも共通します。念のため、彼のことを「嫌な奴」と言っているわけではありません。ただ、オーケストラのメンバーやスタッフが想定外の注文を受け、面食らうことは度々です。リハーサルでも、他の指揮者なら摩擦を恐れて遠慮する領域まであえて踏み込む。「指揮者は嫌われるのが宿命」と割り切って、自らの芸術的信念に向かって突き進む。妥協をよしとしない井上さんのこうした姿勢が、直近の伊福部やショスタコーヴィチに見られたような、爆発的なエネルギーを放出する演奏に繋がっていることは事実だと思います。

 

今さら言うまでもなくベートーヴェンの《英雄》は、それ以前の交響曲の概念を覆すオリジナリティと、破格のスケールを備えた傑作です。

「ベートーヴェンがなぜこんな途方もない音楽を書いたのか。いまだにわからないが、わかろうとする気持ちは持ち続けている」

220年近く前に書かれて以来、数限りなく演奏され、井上さん自身も繰り返し取り上げてきた不朽の名曲に、今回初めてN響と挑む理由は何なのでしょうか。

「目の前にいるオーケストラが違う、ホールの音響が違う、聴衆も違う。いったんステージに立てば、それ以前の経験は関係ない。1回1回が勝負なんだ。今ここでしか作れないサウンド、その瞬間に自分が伝えたいと思った音楽を届けたい」

忖度に同調圧力、規制の内面化・・・、日本社会を覆う閉塞感に、井上道義のベートーヴェンが突破口を開けてくれることでしょう。

 

規格外と言えば、前半に演奏するシベリウスの《交響曲第7番》も相当にユニークな作品です。交響曲と言いながら、たった1つの楽章で構成され、演奏時間は20分あまり。歴史的には、伝統的な4楽章形式の交響曲が解体へと向かう、決定的なきっかけになったという見方もできるかも知れません。とはいえ、主題の提示・展開・再現といったソナタ形式の要素や、アダージョの抒情的な旋律、スケルツォの楽想などは、ベートーヴェンが確立した交響曲の既存のスタイルに則ったもので、これらが単一楽章の中に絶妙のバランスで凝縮されています。

特にスケルツォには《英雄》と共通の音型が見られますが、これがプログラム後半への伏線になっていることに気づいて頂けると嬉しいです。

シベリウスの《第7番》は、ポピュラーな《第2番》のように、終盤のカタルシスが約束されているわけではなく、それだけに演奏が平凡だと、曲のよさが伝わらない難しさがあります。聴き手にとっても、井上さんが「詩そのもの」と評する、渋い傑作の真価を味わうには、「音楽を聴く力」が試されると言えそうです。

 

《英雄》とシベリウス《第7番》の共通項、それは2つの音楽が色彩を必要としない、白と黒の世界であることだと、井上さんは言います。一方、音楽の性格は正反対で、ベートーヴェンとシベリウスの両方を得意とする指揮者はそう多くない、だからこそ挑戦なのだと。

井上道義がこれまでN響と共にしばしば生み出してきたマジカルな時空間が、今回もコンサートホールに現れるのでしょうか。どうぞご期待下さい。

 

 

苦境の日本オーケストラ界を支えた下野竜也が選ぶ「祈りの音楽」を聴く
― 6/11(金)& 12(土)東京芸術劇場 ―

6月11日(金)6:30pm 
6月12日(土)2:00pm

東京芸術劇場

指揮:下野竜也
フィンジ/前奏曲 作品25
ブリテン/シンフォニア・ダ・レクイエム 作品20
ブルックナー/交響曲 第0番 ニ短調

 

6月11、12日は、下野竜也が指揮するイギリスの2作品とブルックナー。マエストロがパーヴォ・ヤルヴィの代役を務めるのは、今年2月に続いて2回目です。

海外の指揮者がほとんど入国できなかったこの1年、国内のオーケストラには「日本人特需」とも言えるような現象が生まれました。当然下野さんのもとにも、各地のオーケストラから出演依頼が殺到しましたが、ご本人としては、こうした状況を素直に喜ぶ気分にはなれなかったようです。仕事が増えて嬉しいと思う以前に、公演を成功させなければという悲壮感・使命感が先に立ったというのです。

 

ブルックナーの《交響曲第0番》は、本来パーヴォ・ヤルヴィが指揮する予定でした。メイン・プログラムとして残したのは、パーヴォに敬意を表したいという下野さんの意向です。もっともそれだけではなく、《第0番》はもともと彼の得意レパートリーでもありました。オーストリアの豊かな自然、まるで森の中にたたずんでいるような情景が広がってくるところに、この交響曲の魅力を感じると言います。

ブルックナー自身、習作と位置づけただけあって、円熟の筆致は望むべくもありませんが、後期交響曲の萌芽が各所に見出せる点、また彼の敬愛する先人たちの音楽―モーツァルトの《プラハ交響曲》、メンデルスゾーンの《夏の夜の夢》、ワーグナーの《タンホイザー》等々―の面影を発見できるのも、《交響曲第0番》を味わうポイントだと思います。

もう1つ忘れてはならないのが、宗教音楽との関わりです。第2楽章にはブルックナーの自作《ミサ曲ホ短調》の〈世の罪を除きたもう主よ〉が、第4楽章には《ミサ・ソレムニス》の〈ホザンナ〉や、合唱曲《アヴェ・マリア》が引用されています。熱心なカトリック信者であった作曲家の信仰心が、この曲にも反映されていると見てよいでしょう。

 

ブリテンの《シンフォニア・ダ・レクイエム》は3楽章形式の交響曲で、それぞれの楽章には〈涙の日〉〈怒りの日〉〈永遠の平和を〉という、カトリックの「死者のためのミサ」から取られた標題がついています。

ティンパニの強打に始まり、同じリズムパターンを繰り返しながら緊迫感を増していく〈涙の日〉は、終盤にフォルティッシモの総奏でピークを迎えますが、下野さんによると、長調と短調を同時に奏でるこの箇所に、ブリテンの天才ぶりが最もよく表れているとのこと。

続く〈怒りの日〉も、達人のなせる業です。アルト・サックスのメロディ以降、次第に各楽器が加わって、強奏になだれ込む部分の音楽を聴くと、筆者はいつも、同じ頃に書かれた《歌劇「ピーター・グライムズ」》の第3幕を思い出します。主人公に向けられた小さな疑念が、口伝てに広がり、加速度的に力を得て、やがて歯止めの効かない憎悪を生む。神の裁きならぬ集団心理の暴力性が、無防備な個人を追い詰めていく場面によく似ているのです。

〈永遠の平和を〉で、曲はニ短調からニ長調に転じます。フルート三重奏の美しさが印象的な、安息の音楽。チャイムを使うことなく、弔いの鐘を感じさせるオーケストレーションは見事という他ありません。

 

下野さんとN響は、2010年5月にもこの曲を演奏しています。あれから11年、東日本大震災やコロナ禍を経て、社会の様相は大きく変わりました。「シンフォニア・ダ・レクイエム」を演奏する今日的な意義は、いやが応にも高まっているように思われます。年月を重ね、下野さんの作品解釈にも更なる深化が見られるに違いありません。

 

フィンジはブリテン同様、20世紀イギリスの作曲家です。《前奏曲》の作曲年代ははっきりとせず、1920年代に構想があったとも言われますが、曲想からは《シンフォニア・ダ・レクイエム》が完成した1940年頃、すなわち第二次世界大戦開始前後の雰囲気を感じます。

曲はラフマニノフの《ヴォカリーズ》を連想させる、哀愁に満ちたメロディで始まります。弦楽合奏の静謐なアンサンブルが続く中、ふとした瞬間に不協和音が入り交じり、痛切な響きが生み出されます。不安な世相の反映でしょうか。クレッシェンドしてヘ長調に転じる終結部は、まるで魂の浄化を暗示するようです。

5分程度の短いながら、曲の構造は《シンフォニア・ダ・レクイエム》とリンクしています。2曲を続けて演奏することで、これらの作品に込められたメッセージが、より明確に浮かび上がってくるのではないかと思います。

 

未曽有の災厄と、それを克服したのちに得られる平穏の世界、大いなる自然賛美、敬虔な信仰心・・・。「今、聴いてほしい音楽」として、下野竜也が選んだのは「祈りの音楽」でした。

「皆で知恵を出しあって、世の中が早く平和を取り戻せたら。ささやかながらこのコンサートが、そのための一助になることを願っています」

 

 

※6/16、17の公演については後日、指揮を務めるパーヴォ・ヤルヴィ本人による作品案内とメッセージを、動画でお送りする予定です。