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2021年4月30日

対談―広上淳一(指揮者)× 池辺晋一郎(作曲家)

尾高惇忠さんの潔癖に美学を貫いた人生を語り合う
―NHK交響楽団5月公演で演奏される尾高作品の魅力

左から、池辺晋一郎(作曲家)、広上淳一(指揮者)

 

5月のN響公演では、広上淳一さんの指揮のもと、尾高惇忠《交響曲〜時の彼方へ〜》を演奏します。2月に逝去された尾高惇忠さんを師と仰ぐ広上さんと、生前親交の深かった池辺晋一郎さんに、間近で感じたそのお人柄や音楽に向き合う姿などについてたっぷりとお話しいただきました。(取材・文:『フィルハーモニー』編集部/撮影:平舘 平)

 

 


 

尾高惇忠

尾高惇忠(おたか・あつただ) 1944年生まれ。1966年東京藝術大学作曲科卒業。同年9月にフランスへ渡り、1970年パリ国立音楽院卒業。帰国後は作曲活動のかたわら、ピアニストとしても活躍。東京藝術大学作曲科、桐朋学園大学にて後進の指導に当たる。2012年《交響曲〜時の彼方へ〜》で第60回尾高賞を受賞。2021年2月16日逝去。

 


尾高惇忠さんとの出会い─恩師として、先輩として

広上:じつは私にとって尾高惇忠先生は高校時代からの恩師なんです。中学生の頃、両親に音楽の道に行きたい、指揮者になりたいと言い出せなくて、悩みながら学生時代を送っていたんです。転勤族だった実家が湘南の茅ケ崎に転居した時、学校の音楽の先生の後押しがあって、おかげで湘南学園の音楽コースに入ったんですけれどね。

 

池辺:しょうなんですか(笑)。

 

広上:(笑)。そこで教鞭をとっていた小川尚子先生の教え子が尾高惇忠さんだったんです。惇忠さんはちょうどパリ留学から帰国された頃だったので、個人レッスンで和声とピアノを習うことになった。高校1年生のときです。月に3回ほど葉山のご自宅に伺いました。その頃によく池辺先生のことが話題にのぼりました。「俺の友人で池辺っていうのがいてね、俺がパリから帰ってきて何にも仕事がなくて、どうしたらいいかわからない時に、いろいろアドバイスしてくれて世話になったんだよ」なんていうお話を聞きました。

 

池辺:「先生」はやめてよ。惇忠さんとは不思議な年齢差なんですよ。芸大では僕の1学年上なんですよね。1年上にはほかに三枝成彰や平義久らがいました。だけど僕は小学1年の時から常に同級生というのはひとつ年下なんです。小学校に入る時から1年遅れているの。

 

広上:ご病気でいらしたんですよね。

 

池辺:そう、だから同級生は必ず年下。大学もストレートで入ったけれど、みんなひとつ年下で。それで尾高さんは学年はひとつ上だけれど、彼は早生まれの1944年生まれ、僕は1943年生まれで年齢は僕よりもひとつ下という、先輩なのか後輩なのかわからない不思議な仲です。そして芸大作曲科の池内友次郎教授を総帥とする同門でした。その当時、芸大の講師陣には三善晃や矢代秋雄、諸井誠など、錚々たる人たちがいました。

学生にも綺羅星のごとく才人がいっぱいいて、その中のひとりが尾高さんでした。彼は卒業するとすぐパリへ留学しちゃったんですね。僕は卒業してからすぐに音楽之友社賞を受賞して、副賞として世界一周の航空券をもらった。池内先生からは留学を勧められたんですが、僕は学生の身分はもういやだと言ってその航空券を使って遊びに行っちゃったわけ。その時に尾高さんにはパリですごく世話になったんですよ。彼はまだ留学して間もない頃で、あの童顔だから、レストランでワインを飲もうと思って「ブラン(白)」と頼んだら牛乳が出てきたという笑い話を今でも覚えています。

芸大作曲科の池内友次郎クラスは「フランス楽派」と呼ばれていて、和声の課題をものすごくやらされる。そのエキスパートとして我々の間で尊敬を集めていたのが、矢代秋雄、その次の世代では尾高惇忠、そして僕と同級の川井学です。今日は尾高さんが作った課題集を持ってきました。

 

 

広上:尾高先生は本当に和声に長けていらっしゃいましたね。まだ『和声 理論と実習』の1巻を始めたばかりの高校生に、ソプラノ、テノール、アルト、バス記号で書かれたご自分の解答例の譜面を見せてくださいましたよ。当時はト音記号とヘ音記号しか知らなかったので、これは何なのかわからなかったのですが、「弾いてみるか?」と尾高先生がピアノで弾いてくださったら、なんとも美しいバッハのような響きに驚きました。私が宿題をサボって勉強してこなかったような時には尾高先生がピアノの前に座って1時間ぐらいそんなふうに弾いてくれたものです。「もうちょっと勉強してくれば、こういう世界が待ってるんだから。ま、コーヒーでも飲むか」、そういうあたたかなレッスンだったんですよ。

 

エクリチュールと作曲のはざまで

池辺:尾高惇忠はハーモニーのエキスパートとして一目置かれる存在でしたが、しかしそれは実際の作曲活動とは少し離れているということでもあるわけです。それを心配した矢代秋雄先生が、私の2、3年上の内田勝人や野田暉行を呼んで、「尾高とか川井とか、あいつらに書かせなきゃならない。そのために『深新会』を復活させて毎年コンサートを実施してほしい。君たちが中心になってやりなさい」とおっしゃったんです。「深新会」というのは池内友次郎門下生の作曲家の会で、かつて作品の発表の場としてコンサートを開催していたんです。それを復活させたのは尾高惇忠らに曲を書かせるというのが目的だったわけ。

 

広上:その「深新会」、私は尾高先生の個人レッスンに就いたばかりの頃、東京文化会館に聴きに行ったんですよ。まだ音楽の「お」の字もわからない、和声学を習い始めたばかりの、ピアノもやっとソナタあたりを真面目に弾こうかというくらいの高校1年生の指揮者志望のできの悪い生徒がね。「ピューン、ピューン、バシッ、バシッ」っていう前衛音楽を初めて体験して驚きましたよ。プログラムには池辺先生のお名前もありましたが、当時の私には尾高先生以外、誰が誰だかわからなかった。それで、僕の先生ってどんなすてきな曲を書くのかなと思ったら「ヒ~〜チャリーン」って(笑)。でもきれいな曲でした。

 

池辺:オルガンの曲でしたよね。

 

広上:何も知らない子どもにとっては衝撃的でしたね。次の週にレッスンに行くと、「どうだった?」と聞かれて、「正直言ってわかりませんでした」と答えた覚えがあります。「池辺とか三枝とか、矢代先生がさ、俺に曲を書け書けって言うんだよな」っておっしゃってましたね。タバコを吸いながら、カエルが潰れたような声でね、(声色を真似て)「書けって言われてもさ、なかなか難しいんだよね、悩んじゃうんだよね」って。

 

池辺:矢代秋雄先生の目論見に僕も乗せられたわけですが、どうして尾高惇忠は書かないのかな、川井学は書かないのかなっていうのは僕も常に思っていたから、彼らに曲を書かせようとずいぶん煽った記憶がある。先輩方も一緒になって、「尾高さん、書いてよ」ってせっついていたと思いますね。

 

広上:先生は、「失敗してもいいや、いろいろ書いてみよう、っていう気持ちになり始めたのはつい最近だ」ともっと後におっしゃっていました。ご自身に非常に厳しい方だった。

 

池辺:その通りです。それに加えて、エクリチュール(和声や対位法などの音楽書法)の世界の美しさに深く傾倒していた。エクリチュールを学ぶということは、ハーモニーの響きやフーガの形を学ぶのと同時に、音楽とは何かという本質を追求していくことです。そこで体験した音の快感みたいなものや美しさは忘れられないんですよ。これだけ映画音楽やテレビ・ドラマ音楽を書いてきた僕ですら、エクリチュールの美は忘れられない。身体に染みついていて絶対に逃れられないわけ。若い頃はそれをじゃまに思って抵抗しようとしたりもした。それでもやっぱりあの美しさが「正しい」のかもしれないという思いがどこかにある。僕ですらそうなんだから、尾高惇忠さんの場合は、僕よりもずっと深くその美がしみついていて、ある意味ではしがらみになっていたんじゃないでしょうか。これがなかなか書けなかった大きな理由のひとつだったのだろうと思いますし、そうならばむしろすばらしいことなんじゃないかとも思います。

 

広上:私がホームレッスンで先生の書斎に伺うと、ゴミ箱にいっぱい五線紙が捨てられているんですよね。たとえば《イマージュ》(1981年作曲のオーケストラ作品)を書かれている時など、おそるおそるゴミ箱から拾い上げてみると、すてきなフレージングなんですよ。そこで、「先生、これすてきじゃないですか」と言うと、「そうか、じゃあちょっと取っておこう」なんておっしゃって、私みたいな者の意見でも聞き入れてくださった。今思うと、先生はご自分で高みを先に設定されているご様子でしたね。

 

晩年に結実した大作の数々

池辺:それだけの厳しさがあり、苦しさと辛さを体験してきて、あるところで吹っ切れるわけですよ。今度N響が演奏する《交響曲》(2011年)もその中で生まれた作品でしょう。その前に書かれた《イマージュ》はまだ苦しんでいる時期だと思うんですね。

 

広上:《イマージュ》は最初の管弦楽作品だったので、何度も委嘱を辞退しようかとじたばたしていらしたようですよ。

 

池辺:それが、その後のコンチェルト・シリーズになると、何かが完全に吹っ切れている。

 

広上:晩年はたくさんお書きになっていました。《チェロ協奏曲》(2018年)や《ピアノ協奏曲》(2016年)や。

 

池辺:それから歌曲とかね。苦しみと辛さを経たところで得た創作の喜びみたいなものがあって、それが尾高惇忠さんのすばらしいところですね。そうした尾高さんの先達が矢代秋雄さんなんだよね。矢代先生も寡作だった。非常に少ないけれど、《ピアノ協奏曲》《チェロ協奏曲》《交響曲》などは、ものすごくすばらしい作品です。やはり、エクリチュールを知っているからこそ簡単には書けなかったのでしょう。矢代先生からは直接さんざん聞いたけれども、「あるフレーズを書いたら1週間毎日見直して、直したいところをちょっとずつ直す。1週間ぐらいそれを続けていると、直さなくていいかなと思うようになる。そうしたら先へ進む。君もそうしてみたまえ」とおっしゃっていましたね。僕はそれでは飽きちゃってもういやになっちゃう。どんどん先を書かなきゃだめなタイプなんですよね。でもこの矢代先生の教えを守ったのが尾高惇忠だと思うんです。

 

広上:尾高先生が矢代先生に傾倒されているのは、弟子の目にも垣間見えました。それは生き方にも表れているでしょうね。

 

池辺:ある文化賞の選考委員を、僕や尾高さんや、何人かでやった時に、彼は途中で来なくなった。「自分は、そんなに世の中のいろいろな音楽や現場に接していないから適任じゃない、降りる」って。僕だってそうだけど、何とかなるかなというところがあるんだよね。どこかで得た知識や何かでやっていればどうにかなるかなって普通は思うの。でも尾高さんはそれを自分に許さなかったんだよね。エクリチュールの話と同じで、作曲という一面のみではなく、生き方そのものに尾高惇忠その人のイデアが反映されていたと思いますね。そういう意味では非常にすばらしい人だったと思う。

 

広上:清濁併せ呑むことを受け入れた方が発見も多いし栄養になるだろうと考えるのが、世の中のおおかたの人間の発想なんですよ。ところが矢代先生も尾高惇忠先生も、ご自分の理念に潔癖であった。世の中というのは得てして不平等であるし、ずるいものでもあるし、流れというものがあります。それにあえて反旗を翻しながら、自分の信ずる哲学や美学を貫くということは、経済的にも立場としても苦しかったと思います。

 

広上:私が不肖の弟子の頃に「先生、大河ドラマの音楽をお書きにならないんですか」と勧めてみたことがあります。「書けねえよ。俺はそんな器用じゃないよ」っておっしゃっていました。あんなに美しい歌曲をお書きになっているのだから、もちろん書けると思うのですが、そういう方でした。晩年になって「歌曲を編曲したらいかがですか」と勧めると、「そうか、お前が言うなら」と言ったり、「チェロ・コンチェルトもやってみようかな。ピアノ・コンチェルトはお前がやって(初演して)くれるか」などと少し筆が早くなってきていたのですけれど。

 

池辺:本人は自信があったと思うんですよ。世の中で認められる人やもてはやされる人がいて、一方で自分が書いた作品が世の中でなかなか受け入れられないということに対して、不平等だと思っていたかというと、僕はそんなことないと思う。自分が思ったとおりに書けない時は不平等だと思ったかもしれないけれど、自分があれだけ学んできて、あれだけいろいろなことを体験してきて、今や思ったとおり書けるようになった時にここぞと書き始めた。その結果を次々に残し始めたところだった。もし不平等だと思うとしたら、まだ途中だということだと思うんですよ。俺はもっと書きたかったのにすべて書きおおせずに途中で終わっちゃったという不平等さに関しては、今感じているかもしれない。

 

広上:おっしゃるとおりですね。涙が出てきます。尾高先生の哲学というのは、どんな時代でも美しい響きを求めるということが根底にあったような気がします。自信があって毅然としていらした。ご自身に対しては厳しかったですけれども、他人に対してはやさしい方でした。

 

池辺:そうなんです。ピリピリした厳しさじゃないんだよ。

 

広上:自信といっても、他人に対して俺はすごいぞっていう意味じゃない。先生の概念の中には、まったく他者との比較がありませんでしたから。おおらか、寛大なんです。

 

池辺:音の美しさ、音楽の美しい瞬間を体験するということの大切さをよく知っていた人。エクリチュールを創作に反映させていた先例としてはラヴェル、フォーレやショーソンがいますが、そういう作曲家たちの系譜に尾高さんがいることは明らかです。それをもうちょっと続けてほしかった、あと10年。

 

広上:池辺先生が作曲家の立場からおっしゃるエクリチュールというもの、私のように不肖の弟子でも感じる美学の原点というもの、その能力を背景にしながら、自分の作品というものに対して厳しくありたいという生き方を貫かれたのではないかなと思います。

 

教育者としての尾高惇忠

広上:高校生の頃、尾高先生のレッスンは、ピアノと作曲理論で2時間半ぐらいでしたけれども、先生と話すのが楽しみで宿題をサボってばかりいたら、「いいかげん勉強してこい」と怒られたことがありました。ピアノはまあまあ好きだったものですから、レッスンの中でだんだんピアノの比重が大きくなりまして。でも普通のピアノの先生が教えるレッスンじゃないんですよ。「このベートーヴェン、ここがいいだろ」「先生、この曲きれいですね。だれの曲ですか?」「お前ショパンを知らないのか」なんて調子でした。競争心や功名心のためではなく、ただ無心に音楽をする喜びを楽器を使って教えてくださった。けっしてできのいい弟子ではなかったけれども、たとえ才能がなくても、音楽と対峙する時の心構えや考え方というものを、あの多感な時期に植え付けてくださったことや、私を相手にコーヒーをごちそうしてくれながら、気さくに「池辺がな」「三枝がな」といろいろな音楽の話をしてくれたことは、後年、指揮者としてオーケストラと無心に向き合えた時に、私にとって最大の財産だったなと思いました。葉山で先生に習ったことが今の私を形成しています。願わくば、あと10年生きててもらえれば、もう少しご恩返しができたんですけどね。

 

尾高作品のマグマ

広上:尾高惇忠さんの《ピアノ協奏曲》の初演をやらせてもらった時、私の身に起きたことがあります。尾高惇忠先生の最後のピアノの弟子でもある野田清隆君と日本フィルハーモニー交響楽団で、先生も立ち会われる中で練習をしていましたら、とてつもなく大きなエネルギーを使わないと作曲家の欲している音が出ない箇所がいくつかあることに気づいてたじろいだんですよ。普段はモーツァルトのようなおおらかで寛大なしゃべり方なのに、その箇所にくるとベートーヴェンみたいな圧力を感じる。その圧力に飛ばされそうになってしまったんですね。私が演奏を止めて、「先生ごめんなさい、圧力に負けそう」って言ったら、オーケストラもピアニストも大笑い。その箇所をオーケストラに向かって示したら、後ろに座っていた先生が「よく見つけたな、お前」っておっしゃいましたよ。この先生は、いざ思っていることを表すときはこんなに真正面からぶつけるんだと思った。

 

池辺:例えば武満徹さんも、あれだけナイーブで、ドルチッシモな作曲家でありながら、《アステリズム》(1968年)というピアノ協奏曲にはものすごいクレッシェンドがあるんですよ。激しいクレッシェンド。武満さん、どうしてこんな音を書いたのかなと思うようなところがある。それが作曲家の力だと思うんですよね。普段はそういう面は見せないで、まわりの誰も気づいていないけれども、実はものすごいマグマが潜んでいる。そういう気質がなければ、作曲への情熱は生まれないんです。ナイーブだけど実はガイーブ(外部)に出てくるんですよ。

 

 

広上:(笑)。その時に、尾高先生の中に潜むマグマに触れられたことと、マグマに気づいてその音を出せたのがうれしかったですね。今度の《交響曲》には、第1楽章にも第3楽章にもマグマ放出の箇所がありますよ。先生にもN響の演奏で聴いてもらいたかった。「今年はいっぱい先生の作品の演奏がありますから」と言ったら、「そうだよな。聴きてぇな」なんておっしゃっていた。亡くなる3日前にも「大河ドラマ『青天を衝け』に尾高惇忠(じゅんちゅう)が出てくるんだから死んじゃだめだよ」と1時間くらい長電話していたんです。あと1年は頑張れるだろうと思っていたんですよ。だから弟の尾高忠明先生からメールをいただいた時には、半分信じられなくて。尾高先生が亡くなられた日は尾高尚忠先生(1911〜1951)の命日だったんですよ。

 

池辺:そうでしたか……。すばらしい家系ですよね。作曲家で日本交響楽団(N響の前身)の常任指揮者でもあった尾高尚忠が父親、指揮者の尾高忠明が弟で、そのうえ尾高惇忠と渋沢栄一が曽祖父でね。上部におもねらず、派手に見えるところに走らず、常に本質を見抜く心を大事にする気風というのは、尾高家が持っているものなんでしょうね。

 

広上:その物事の本質というものを屈託なく軽やかにおっしゃるんですよね。

 

広上:今回N響から出演のオファーをいただいたときは、「《交響曲》をやりなさい」と天から命じられた気がしました。「先生へのご恩返しをして、お前も残りの人生をしっかり生きていきなさい」と言われているのではないかという思いがあります。個人的な思いを申し上げてしまうのですが。もしかしたら、「おい広上、今のコロナって何だよ、もういやんなっちゃったから先に行くぞ」っておっしゃったのかもしれないですね。惇忠先生はもうちょっと引き留めたかったんですけれども、せっかちでいらしたから行ってしまわれた。私もあとから行きますけれども、もうちょっとだけやり残したことがあるので。池辺先生にも健康には気をつけていただきたいですね。まだまだ先生の世代の背中を見ていたいので。

 

池辺:ぼちぼち(墓地墓地)考えます。

 

広上:(笑)。今回の《交響曲》では、作曲家の視点から池辺先生がおっしゃられた本質的なことというものを味わっていただきたいですし、演奏家の立場から言うと、尾高惇忠の作品の美学を人の心に響かせたいと思っています。指揮者はAIに取って替わることができるなんて話題もありますが、私の思いをこめて指揮させていただきます。

 

池辺:音楽はAIじゃないよ、愛だよね(笑)。

 

 

 


【プロフィール】

広上淳一(指揮者)
Junichi Hirokami, conductor

尾高惇忠にピアノと作曲を師事、音楽、音楽をすることを学ぶ。1984年、第1回「キリル・コンドラシン国際青年指揮者コンクール」で優勝。以降フランス国立管弦楽団、ベルリン放送交響楽団、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、モントリオール交響楽団、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団、ロンドン交響楽団などの世界の主要なオーケストラに客演。スウェーデンのノールショピング交響楽団首席指揮者、オランダのリンブルク交響楽団首席指揮者、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団首席客演指揮者、アメリカのコロンバス交響楽団音楽監督を歴任した。オペラでも活躍し、グルック、モーツァルトからヴェルディ、プッチーニ、さらにゴリホフ《アイナダマール》の日本初演まで、幅広いレパートリーで数々のプロダクションを成功に導いている。2008年、京都市交響楽団常任指揮者に就任し、2014年よりミュージック・アドヴァイザーを兼任。2020年4月からは同団常任指揮者兼芸術顧問の地位にあるほか、京都コンサートホール館長を務めている。2017年4月からは札幌交響楽団友情客演指揮者も務める。また、東京音楽大学指揮科教授として後進の指導にも力を注ぐ。N響に初めて登場したのは1985年のこと。以来定期的に共演を重ね、2020年9月には、R. シュトラウス《町人貴族》で精妙かつ活気あふれるアンサンブルをN響から引き出した。2016年、有馬賞受賞。

 

池辺晋一郎(作曲家)
Shin-ichiro Ikebe, composerr

1943年水戸市生まれ。1967年東京藝術大学卒業。1971年同大学大学院修了。池内友次郎、矢代秋雄、三善晃、島岡譲の各氏に師事。1966年日本音楽コンクール第1位。同年音楽之友社室内楽曲作曲コンクール第1位。1968年音楽之友社賞。以後ザルツブルクTVオペラ祭優秀賞、イタリア放送協会賞(3回)、国際エミー賞、芸術祭優秀賞(4回)、尾高賞(3回)、毎日映画コンクール音楽賞(3回)、日本アカデミー賞優秀音楽賞(9回、うち3回最優秀賞)、横浜文化賞、姫路市芸術文化大賞などを受賞。1997年NHK交響楽団・有馬賞、2002年放送文化賞、2004年紫綬褒章、2016年第24回渡邉暁雄音楽基金特別賞を受賞/受章。2018年文化功労者として顕彰。
現在東京音楽大学名誉教授、東京オペラシティ・ミュージック・ディレクター、石川県立音楽堂・洋楽監督、せたがや文化財団音楽事業部音楽監督。これまで、横浜みなとみらいホール館長ほか、多くの文化団体の企画運営委員、顧問、評議員、音楽コンクール選考委員などを歴任している。
1996年より13年間、壇ふみとともにNHKテレビ「N響アワー」の司会を担当し、好評を博した。NHK-FM「ザ・レジェンド」解説者を2021年3月まで務めた。
作品には、交響曲No. 1〜10、ピアノ協奏曲No. 1〜3、チェロ協奏曲、オペラ「死神」「鹿鳴館」「高野聖」をはじめ管弦楽曲、室内楽曲、合唱曲など多数。映画「影武者」「楢山節考」「うなぎ」「瀬戸内少年野球団」「スパイ・ゾルゲ」や、テレビ「八代将軍吉宗」「元禄繚乱」など多数の映画・ドラマ音楽の他、演劇の音楽約500本を担当。著書に『音のいい残したもの』『おもしろく学ぶ楽典』『オーケストラの読みかた』『スプラッシュ』『空を見てますか…1〜12』『バッハの音符たち』『モーツァルトの音符たち』『ブラームスの音符たち』『シューベルトの音符たち』『ベートーヴェンの音符たち』『シューマンの音符たち』等がある。

 

 


[公演情報]

NHK交響楽団 5⽉公演 サントリーホール

2021年5月26日(水)開演:7:00pm  
2021年5月27日(木)開演:7:00pm

サントリーホール

指揮:広上淳一
ヴァイオリン:白井 圭(N響ゲスト・コンサートマスター)
チャイコフスキー(マカリスター編)/弦楽四重奏曲 第1番 作品11─第2楽章「アンダンテ・カンタービレ」(弦楽合奏版)
サン・サーンス/ヴァイオリン協奏曲 第3番 ロ短調 作品61
尾高惇忠/交響曲〜時の彼方へ〜