カリンニコフ (1866 - 1901)

交響曲 第1番 ト短調 (約37分)

 ワシーリ・カリンニコフの名前は、ロシア音楽好きの方以外には、ほとんど馴染(なじ)みがないかもしれない。彼の短い生涯はつねに貧困と病気に苛(さいな)まれ続け、作品では2曲の交響曲と管弦楽曲、劇音楽やカンタータ、それに数曲の器楽曲等が残されているだけである。しかしながら、チャイコフスキーも称賛したその才能と個性は、彼の代表作である《交響曲第1番》に明確に示されている。
 カリンニコフの生涯は胸の痛むような不運の連続である。1884年にモスクワ音楽院に入学するが経済的な困窮から数か月で退学を余儀なくされ、その後はモスクワ・フィルハーモニー協会の音楽学校に移り1892年に修了した。卒業と同時にチャイコフスキーによってモスクワ・マールイ劇場の指揮者に推薦され、翌1893年にはイタリア歌劇場の副指揮者に就職して、ようやく独立した音楽家としての活動を開始した矢先、肺結核によって中断を余儀なくされる。その後は教師クルーグリコフや友人たちの援助を受けて保養地を転々としながら、闘病の合間に作曲を続けた。《交響曲第1番》は1894年に作曲が開始され、翌年に完成された。写譜屋を頼む余裕のないカリンニコフは妻と共に総譜やパート譜を自ら浄書(じょうしょ)し、各都市の演奏団体に送ったがことごとく演奏を拒否される。ようやく1897年にキエフで行われた初演は大成功を収め、カリンニコフに初めての名声と収入をもたらしたが、彼の人生にはあと4年しか残されていなかった。
 ロシア音楽史のなかで、カリンニコフはグラズノフ(1865~1936)やグレチャニーノフ(1864~1956)と同世代だが、アカデミックな教育を受けた後二者の交響曲が、先輩世代であるチャイコフスキーやリムスキー・コルサコフよりもはるかに保守的で手馴(な)れた(裏を返せば常套〔じょうとう〕的な)スタイルなのに対し、民謡風の素朴さや叙情性を全面に押し出し、循環形式で全体をまとめるカリンニコフの交響曲は、ロシア国民楽派や初期チャイコフスキーの音楽性を発展させたような表現の直截(ちょくせつ)性や誠実さが特徴だ。リムスキーは彼の和声法や対位法の技術的な未熟さを辛辣(しんらつ)に批判しているが、むしろそうしたアカデミズムに帰依(きえ)する機会を得られなかったことで、カリンニコフの個性が素直に表出されたのだろう。

第1楽章 アレグロ・モデラート、ト短調、2/2拍子、ソナタ形式。冒頭、ロシア民謡風の第1主題が弦楽器によってユニゾンで提示される。これが半音階的な和声を挟んで様々に変奏されながらクライマックスに達した後、幅の広い叙情的な第2主題がホルンとヴィオラ、チェロの落ち着いた音色によって歌われる。展開部はかなり長大であり、第1主題と第2主題の対位法的展開や第1主題のフガート等を通して雄大な高揚を見せる。
第2楽章 アンダンテ・コモダメンテ―ピウ・モッソ―テンポ・プリモ、変ホ長調、3/4拍子、3部形式。バレエの一場面を彷彿(ほうふつ)させるように、夢幻的なハープとヴァイオリンの伴奏を背景に、イングリッシュ・ホルンが歌謡的な主題を奏し(この主題はフィナーレのクライマックスで壮大に再現されることになる)、中間部ではメランコリックで物憂げな主題がオーボエに現れ、やがて意識が覚醒(かくせい)するようにオーケストラ全体に広がっていく。この楽章について作曲家は次のように語ったという──「皆が眠りにつき、外からは物音ひとつ聞こえない。するとこの静寂が震え出すのだ。自分自身の心臓が鼓動し、孤独が心を捕えるのを感じるだろうか」。
第3楽章 スケルツォ:アレグロ・ノン・トロッポ―モデラート・アッサイ―アレグロ・ノン・トロッポ、ハ長調、3/4拍子、複合3部形式。民族舞曲的なリズムによる野趣あふれるスケルツォ。2つの旋律が別々に登場し、やがて統合されて華やかさを増していく。対照的に中間部トリオでは、バグパイプ風の固執低音に乗って牧童の吹く葦笛(あしぶえ)を彷彿(ほうふつ)させる鄙(ひな)びた旋律が歌われる。
第4楽章 終曲:アレグロ・モデラート―アレグロ・リゾルート―アレグロ・コン・ブリオ―マエストーソ、ト長調、2/2拍子、ソナタ形式。第1楽章の主要主題の回想とフィナーレの第1、第2主題の提示が交互に進められることで、両楽章の主題的な関連性が明瞭(めいりょう)に示される。様々なエピソードがカラフルに交代する展開部を通り過ぎ、やがて第1主題が熱狂的に反復されるなかで、第2楽章の主題が金管による讃歌風のコラールに変容して盛大に全曲を締めくくる。

作曲年代:1894~1895年
初演:1897年2月20日(旧ロシア暦では8日)、キエフ、アレクサンドル・ヴィノグラツキー指揮、ロシア音楽協会の演奏会にて

(千葉 潤)