シューベルト (1797 - 1828)

交響曲 第7番 ロ短調 D.759「未完成」

 もし《未完成交響曲》が43年間の忘却に埋もれることなく1820年代に演奏されていたとしたら、どんな驚きをもって聴かれたことだろう。ハイドン、モーツァルトの晴朗さがいまだ模範をなし、《第8番》の後はベートーヴェンも長い沈黙を守っていた当時のウィーン。その状況下にあって、低弦の最低音にまで届かんばかりの導入に続き、紡ぎかけた想念をかき消すかのように主要主題を完全終止させ、その後おもむろに歌い出した歌をも葬送音楽のトレモロによって溶解させてしまう……。深い静寂によって音の流れが幾度も断ち切られるこんな交響曲の出現を、いったい誰が予想できただろうか。それは、あらゆる意味において古典派の伝統を外れた問題作であった。
 それにしても、この音楽はなぜ完成にいたらなかったのか? それは未来にわたって謎であり続けるにちがいないが、ここでは残された資料をもとに、作品をめぐる物語をたどってみよう。
 人々がいまだ聴いたことのない音調を交響曲の世界に響かせたいと願っていたシューベルトは、いくつもの試行錯誤をくり返し、やがてロ短調で新たな交響曲を書くという、交響曲史上でも先例の見当たらない特異な構想を得るにいたった。周到にピアノ・スケッチを作り、成功の公算を大にした作曲家は1822年10月30日、いよいよ総譜に着手する。第2楽章を仕上げ、第3楽章の開始部分を書き始めてほどなく、作曲はなぜか放棄されてしまうが、にもかかわらず彼はひときわ堂々たる達筆で別紙の冒頭ページに書き下ろす──「交響曲ロ短調、フランツ・シューベルト自筆」と。先立つスケッチはトリオまで問題なく進んでいるから、放棄の理由は技術的なものではなく、もっと内的な何かだった。そしてその事情は、1820~1823年頃のシューベルト作品全般にも通じるものであろう。
 この時期の歌曲に目を向けると、陰鬱な現在(地上)を脱して至福の国(天上)へ、という志向がめだつ。総譜着手の3か月前に書かれた「僕の夢」という寓話ふうの文章にも、母の死という対象喪失から孤独なさすらいを経て「光」と「奇跡」に満ちた「死による和解」へ、という願望が語られている。シューベルトの「ロマン主義時代」と称されるゆえんのひとつであり、フランス革命期の芸術家にも広く見られる二元論だが、ひたむきに光を求めるシューベルトの直截(ちょくせつ)さはきわだっている。ここで重要なのは、この時期のいくつかの歌曲にロ短調で刻まれる不安と孤独の鼓動が《未完成交響曲》の冒頭に酷似し、究極的な光の楽園はしばしばホ長調の五音音階によって歌われる、ということである。──そう、第2楽章(ホ長調)の冒頭、ホルンの呼びかけに乗って弦楽が奏でる五音音階のそよぎは、《美しい水車屋の娘》(1823年)の終曲で小川が若者を包みこむ永遠の安らぎの歌であり、死の前年にいたってなお《冬の旅》の〈菩提樹〉が「ここにお前の憩いがあるよ」と囁(ささや)きかける声なのである。
 つまり、第2楽章で光と平安に満ちた天上世界を描ききってしまったシューベルトには、その先を続ける内的な動機がもはや残されていなかった。《未完成》が第3楽章で放棄された理由はこの点に求められよう。晩年になると、アイロニーや永遠の未決を主軸とする新たな様式が開拓されることになるが、中期のシューベルトをとらえていたのは「救済」への強い衝動にほかならなかった。
 ともあれ、遺された自筆譜のうちでもこの上なく美しいものに数えられるこの総譜を、いつかの段階でシューベルトは、しばしば草稿を管理してくれた年長の友人に託したのであった。作曲開始のおよそ半年後にあたる1823年4月、シューベルトはウィーンの南西、グラーツの音楽協会より在外名誉会員に任ぜられる。その返礼として贈られた作品こそ《未完成交響曲》であろう、と推定されてきたが(総譜を託された友人の兄は協会の常任名誉会員であった)、実はそれすら定かではない。1年近くも前の未完の問題作は返礼にふさわしいとはいえないし、もっと懇意にしていた音楽協会には作品の献呈が行われていないからである。ともかく総譜はそのまま43年間、この友人兄弟によって陽の目をみることなく保管され続け、シューベルトも、知られているかぎり、その後は一度としてそれに言及することがなかったようである。この点も、今もって解かれてはいない謎である。

第1楽章 アレグロ・モデラート 3/4拍子 ロ短調
第2楽章 アンダンテ・コン・モート 3/8拍子 ホ長調

作曲年代:1822年10月30日、総譜に着手
初演:1865年12月17日、ウィーン王宮舞踏の間にて。上記シューベルトの知人より自筆譜を託されたヨハン・ヘルベック指揮

(堀 朋平)