プロコフィエフ (1891 - 1953)

交響曲 第5番 変ロ長調 作品100

 ロンドンにあるセルゲイ・プロコフィエフのアルヒーフには、1920年代初頭~1930年代半ばにやり取りされた約11,000点の書簡資料が所蔵されている。書簡の几帳面な保管状況や文面からは、縁を大切にした人柄が伝わってくる。
 とりわけ自作を演奏してくれるよう熱心に指揮者やエージェントに依頼する手紙が目を引く。自作以外では10歳年上で唯一無二の親友であった学友ミャスコフスキーの作品を何度となく推薦している。ヘンリー・ウッドなどの著名指揮者たちにミャスコフスキーの作品を推薦しては当人に報告し、先方から返事をもらえばまた報告し、とまるで我が事のように懸命である。
 プロコフィエフはよく知られているように1918年に日本を経由してアメリカに居を移した。その後、アメリカからヨーロッパ、そしてソ連への帰国へと、多くの亡命ロシア人音楽家たちが辿った方向とは真逆の経路をたどる。しかも完全帰国をはたした1936年は、「エジョフシチナ」として知られる大粛清の始まりの年であった。これはある種不可解な行動であったが、ヨーロッパでの人気が翳(かげ)りを見せていた1930年代にソ連では成功していたという状況に加え、常に自分の味方でいてくれたミャスコフスキーから再三帰国を勧められたことも、プロコフィエフの決意を後押ししたと想像される。
 ソ連に帰国したプロコフィエフを待っていたのは決して平坦な道ではなかった。ようやく1940年代半ばになって自他ともに認める国民的作曲家としての輝かしい時期を迎える。それを象徴的に示しているのが、1946年のスターリン国家賞第1席の4作品同時受賞である。戦時下にあった1943~1945年の3年分の授与が1946年にまとめて行われたこともあり、結果としてプロコフィエフは、ソ連音楽史において後にも先にもこのとき一度きりの4作品での第1席同時受賞という快挙を果たした。その4作品とはいずれも1944年に完成された《ピアノ・ソナタ第8番》と《交響曲第5番》、バレエ《シンデレラ》、さらにプロコフィエフが音楽を創作したエイゼンシテイン監督の映画『イワン雷帝』である。
 ソ連において交響曲は記念碑的なジャンルとして重要視されており、プロコフィエフが実に15年ぶりの交響曲となる《第5番》を完成させたのもこうした時流を受けてのことと考えられる。さらに第二次世界大戦末期にあって、ソ連の勝利を確信する祝勝ムードとも合致し、1945年1月に作曲家本人の指揮で行われた初演は大成功を収めた。
 この作品はそれまでのプロコフィエフ的な不協和音が影を潜め、全音階的な旋律と分かりやすい形式で書かれている。作品に表題はないが、後にプロコフィエフはこの曲で「人間の精神の偉大さ」を表そうとしたと語っている。

第1楽章 アンダンテ 変ロ長調 3/4拍子。ソナタ形式。冒頭でフルートとファゴットが第1主題を牧歌的に奏でる。オペラ《修道院での結婚》やバレエ《ロメオとジュリエット》といった舞台音楽の情景的な調べを彷彿とさせる。第2主題は叙情的な響き。再現部冒頭、第1主題は打って変わって金管楽器による荘厳な雰囲気に包まれる。その祝祭性は第2主題後のクライマックス、コーダに引き継がれる。
第2楽章 アレグロ・マルカート ニ短調 4/4 拍子。ニ長調の中間部をもつスケルツォ。諧謔(かいぎゃく)的な主題が変奏されていく。この変奏のひとつに弱音器を付けた第1ヴァイオリンによる16分音符のパッセージがある。これはもともと1930年代前半に書かれたアイディア帳(スケッチブック)に残されていたもので、《ロメオとジュリエット》の草稿でエンディングに使われていたことが近年の研究でわかっている。
第3楽章 アダージョ ヘ長調 3/4拍子。楽譜上は長調の表記であるが、美しくも物悲しい息の長いモノローグが流れる。その美しさは前の楽章のスケルツォとのギャップによって一層際立っている。
第4楽章 アレグロ・ジョコーソ 変ロ長調 2/2 拍子。ロンド形式。導入部では冒頭のパッセージにつづき、第1楽章の第1主題が流れる。つづくロンド主題ではプロコフィエフ独特の半音階的な転調が愉しい。ここに副主題としてやはり第1楽章提示部最後に登場する滑稽(こっけい)なパッセージがつづく。中間部で低弦によって奏される旋律も上述のアイディア帳にあったもの。コーダではこれらの主題が一体化し、華やかに幕を閉じる。

作曲年代:1944年夏
初演:1945年1月13日、モスクワ音楽院大ホール、作曲者自身の指揮によるソ連国立交響楽団

(中田朱美)