ラフマニノフ (1873 - 1943)

交響的舞曲 作品45(約35分)

 1934年以来、スイスのルツェルン湖畔に建てた別荘を拠点に、欧州で精力的な演奏ツアーを行っていたラフマニノフは、第2次世界大戦の戦禍(せんか)を避け、1939年8月11日のルツェルン国際音楽祭での演奏を最後に、再びニューヨークへ渡った。1917年に故国ロシアから亡命していた彼は、今度はヨーロッパとも完全に決別しなければならなかった。当時のアメリカでは、クーセヴィツキーがボストン交響楽団を振り、トスカニーニがNBC交響楽団を率い、オーマンディがフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督を務めていた。この一大音楽消費国となったアメリカで、1940年の夏、内からこみ上げる作曲意欲によって短期間で書き上げられた人生最後の作品が《交響的舞曲》である。
 舞曲の作曲に向かった理由のひとつには、自作《パガニーニの主題による狂詩曲》(1934年)が1939年にミハイル・フォーキンの振り付けでバレエ化されたことがあげられる。ラフマニノフはまず1940年8月21日に、初演指揮者となるオーマンディに宛(あ)てて、新しい管弦楽曲のオーケストレーションにとりかかったことを伝えている。この時のタイトルは「幻想的舞曲」だったが、直後に「交響的舞曲」と変更している。9月にはフォーキンの前でもピアノで試演し、バレエ化を打診している。フォーキンの9月23日付の手紙からは大変気に入った様子がうかがえるが、1点、ラフマニノフがワルツのリズムにとらわれすぎているのではないか、バレエ化にあたってワルツのリズムの支えは必要ないと、指摘している。結局バレエ化は1942年のフォーキンの死により、実現されずに終わった。
 各楽章とも舞曲に特徴的な3部形式に基づいている。
 第1楽章 ノン・アレグロ。独特の厳しさを湛(たた)えた行進曲風舞曲に挟まれた中間部では、一転して木管楽器による室内楽的なアンサンブルが牧歌的な旋律を奏でる。ここでオーボエ、クラリネットに続く第3の木管楽器として、ラフマニノフがこだわったアルト・サクソフォーンが登場し、旋律を主導する。
 第2楽章 アンダンテ・コン・モート(ワルツのテンポで)。ラヴェルの《ラ・ヴァルス》風のワルツはすぐにロシアの憂愁を湛えたワルツへと変化する。ヴァイオリンから木管楽器へと受け渡される独奏旋律が不気味な案内人のようにワルツを導く。
 第3楽章 レント・アッサイ─アレグロ・ヴィヴァーチェ。短い導入ののち鐘が鳴り、「死の舞踏」が暗示される。やがてカトリック教会の死者のためのミサ「レクイエム」で歌われた〈怒りの日〉の旋律が、木琴(シロフォン)で奏される(第1主題)。またかつてラフマニノフがロシア正教会の奉神礼音楽として作曲した《徹夜禱(とう)》(1915年)の第9曲〈主よ、汝(なんじ)はあがめ讃(ほ)められる〉の旋律が、第2主題として引用される。幻想的な中間部を経て、アレグロ・ヴィヴァーチェの再現部では2つの主題が展開する。《徹夜禱》の旋律が〈怒りの日〉を凌駕(りょうが)して、ラフマニノフが「アレルヤ」と書き込んだ勇壮的なコーダを経て終わる。
 時を刻む舞踏のリズムに乗った30分強の《交響的舞曲》には、自作も多く引用され、映画のモンタージュのようにラフマニノフの人生そのものが凝縮されている。

作曲年代:1940年
初演:1941年1月3日、ユージン・オーマンディ指揮、フィラデルフィア管弦楽団

(安川智子)