マーラー (1860 - 1911)

交響曲 第1番 ニ長調「巨人」(約55分)

 今では交響曲の作曲家としてゆるぎない地位を築いているマーラーであるが、ウィーン音楽院を卒業してからの彼は、食いぶちを得るために小規模のオペラ劇場でピアニスト兼指揮者としてがむしゃらに働いた。学生時代に挑戦して幻に終わったオペラ3作をはじめ、最初期から歌曲や《嘆きの歌》などの声楽つきの作品に対する志向が顕著だったマーラー。オペラを指揮する日々において、音楽に寄り添う「言葉」に執着するのも当然の成り行きであり、そのこだわりがあらゆる創作活動の原点になったとも言えよう。交響曲を意図して書いた全5楽章の「2部からなる交響詩」もその例外ではなかった。
 マーラーが1884年に着手した「交響詩」は、自作品のコラージュのような性格を持っていた。歌手ヨハンナ・リヒターへの片思いから生まれた《さすらう若者の歌》の一部、カッセルで指揮したヴィクトル・ネスラーの《歌劇「ゼッキンゲンのラッパ手」》と同じ台本に自ら付けた旋律の一部、過去に作曲した《嘆きの歌》のフレーズや初期歌曲の要素が、作品の骨組みを作るために集められているのである。指揮活動の合間にこうして積み上げられた「交響詩」は1889年11月20日、ブタペストで初演された。
 初演での聴衆の反応は芳(かんば)しくなかった。1893年10月27日、ハンブルクで2度目の演奏のチャンスを得たマーラーは、タイトルを「『巨人』、交響曲形式による音詩」に変更すると同時に詳細な説明を加えた。第1部の標題は「青春の日々より─花、果実、いばらの曲」とし、〈花の章(ブルーミネ)〉を挟んで現行の第1・2楽章を、第2部の「人間喜劇」には現行の第3・4楽章を置いた。これは好評だったが、続くワイマールでは物議を呼び、嫌気のさしたマーラーは、1896年3月16日にベルリンで行われた演奏会に際して標題をすべて撤回、〈花の章〉は削除、全体タイトルを「大管弦楽のための4楽章からなる交響曲 ニ長調」に変えてしまった。これこそが《交響曲第1番》である。もっとも《第1番》と番号が付いたのは、3年後の楽譜出版の時であったが。
 マーラーは、ジャン・パウルの著作に基づくタイトルや言葉による説明が聴衆の音楽理解に役立つと信じたのだが、実際には誤解を招く原因だと気づいたと述べている。とはいえ、《交響曲第2番》以降でも同じように標題の付与と削除が繰り返された事実は、試行錯誤の過程そのものがマーラーの創作の特質を表しているのだろう。
 第1楽章 ゆっくりと、引きずるように、自然音のように、ニ長調、4/4拍子。長い導入部では、弦楽器が茫漠(ぼうばく)とした響きを奏でるなか、ファンファーレや鳥の鳴き声の模写が聞こえる。主部には《さすらう若者の歌》の第2曲と同一の素材が使われている。
 第2楽章 力強い動きをもって、しかし速すぎずに、イ長調、3/4拍子。レントラー風のリズムで進む主部と、ヘ長調の穏やかなトリオで構成される。
 第3楽章 厳粛に悠然と、引きずらずに、ニ短調、4/4拍子。民謡《フレール・ジャック》(あるいは《マルティン兄貴》)から採られた主題がカノンで綴(つづ)られる。不気味さを演出する楽器奏法が次々と使われる。
 第4楽章 嵐のように速く、ヘ短調、2/2拍子。シンバルの一撃で始まる激動の流れは、弦楽器による叙情的な主題で救われる。やがて第1楽章が回想された後、金管の輝かしい強奏に導かれてニ長調の主和音が繰り返され、曲は堂々と結ばれる。

作曲年代:1884年頃~1888年
初演:1889年11月20日、ブダペスト、マーラー自身の指揮で

(山本まり子)