ストラヴィンスキー (1882 - 1971)

バレエ音楽「春の祭典」(約35分)

 《花火》また《幻想的スケルツォ》によってディアギレフに見出されたストラヴィンスキーは、やがてこの稀代(きだい)の興行師が結成する「ロシア・バレエ団」の座付き作曲家としてパリに赴く。そしてこの異国の地で、後に彼の「三大バレエ」と称されることになる三つ組のバレエ音楽を作曲することになった。《春の祭典》はその最後を飾るものである。これに先行する《火の鳥》と《ペトルーシカ》がストラヴィンスキーを世界的な作曲家にしたとするなら、この《春の祭典》はストラヴィンスキーを20世紀音楽全体のアイコンにしたといえよう。
 これだけ有名な作品であるから逸話には事欠かない。《春の祭典》は、しばしば互いに矛盾する関係者の証言に分厚く取り巻かれている。そのなかで現代にまで通じる問題を提起するのが、この音楽の自律性に関わる証言である。いったい《春の祭典》は、先にあったバレエ台本にあわせて作曲されたのか、それとも、音楽のほうが先にあり、バレエ台本はそこから引き出されたものであったのか。
 ストラヴィンスキー自身は、後年になるほど後者が真実であることを強調するようになる。作曲者としては当然であろう。《春の祭典》は、1913年、ニジンスキーの振り付けによってまさしくバレエとして初演されたわけであるが、その後は、もっぱら演奏会用作品として生きることになったのだから。しかし、初演の舞台美術も担当したレーリヒは、まったく逆に、もう完成していた台本をストラヴィンスキーに与えたのが自分であることを、明言しているのである。
 バレエの題材はキリスト教が入ってくる以前のスラヴ世界にあった原始宗教の儀式世界。それがまったくの後付けであると(後年のストラヴィンスキーのように)主張するのは、いまから考えればかなり無理があると思われる。後年のストラヴィンスキーが「音楽は何も表現しない」といったところで、少なくとも《春の祭典》の各部のタイトルと音楽との間に密な交流があることは、われわれの直観が教えるところである。
 またストラヴィンスキーの主張とは裏腹に、後年の学者が、この台本が舞台とするスラヴ世界に息づくリトアニア、ベラルーシ、ロシア、ウクライナの民謡の引用を《春の祭典》のなかに多数発見するに及んでは、この音楽の意図された表出性は、もはや否定しえないものとも感じられる。
 しかし真偽がどうであれ、ストラヴィンスキーが《春の祭典》については、組曲を作成しようとしなかったことは指摘しておかねばならない。とくに《火の鳥》、また《ペトルーシカ》においては、登場人物の所作を追う「オノマトペ」(擬声語)のような部分が少なからずあって、ストラヴィンスキーはこれらをカットして「自分の音楽だけの」組曲に仕立てる要求を持たずにはいられなかった。しかし、《春の祭典》には、はじめからカットするような部分はなかった。あらゆる部分が全体を作り出す不可欠の構成要素としてそこにあるのだから。
 実際、これこそが《春の祭典》の凄みである。最初こそ「不協和」という事態に圧倒されるかもしれないが、耳が開かれていくにつれ、《春の祭典》のなかには、いくつもの「ユニット」が存在していることに気づくだろう。それらは、ひとつの曲のなかで、あるいは、複数の曲にまたがって、何度も並び替えられ、その時々に新しい組み合わせ、すなわちは、新しい響きを作り出していく。不協和は、これらのユニットの摩擦から発せられる火花のようなものなのだ。
 ストラヴィンスキーの友人であったラミュは、作曲家の仕事場について興味深い観察を残している。「ストラヴィンスキーの机は、外科医の棚のようだった。いろいろな色のインク壺(つぼ)がきわめて整然と並び、それらのインク壺がさらに大きな秩序を形成している。(中略)そこにはストラヴィンスキーの内面の明晰(めいせき)さを反映するひとつの秩序があった」。《春の祭典》は、まさしくこの明晰さから生み出されたものに違いない。《春の祭典》を初演したモントゥーは、観客たちの怒号ゆえに、もはや音楽が聞こえなかったという。しかし、われわれは、もう見かけの不協和に騙(だま)されたりはしない。その奥にある組み合わせの秘術に気づくとき、《春の祭典》とともに新しい音楽の地平が開かれる感動を体験することができるだろう。

作曲年代:1910~1913年
初演:1913年5月29日、パリ、シャンゼリゼ劇場、ピエール・モントゥー指揮、ロシア・バレエ団

(藤田 茂)