ワーグナー (1813~1883)

楽劇「ニーベルングの指環」管弦楽曲集 (約57分)

 リヒャルト・ワーグナーが1848年に着想を得てから1874年に総譜を完成させるまで26年もの歳月を費やした《楽劇「ニーベルングの指環」》は、上演時間が4夜通算約15時間に及ぶ大作であり、そこには古代北欧神話、ドイツ英雄伝説、ギリシア悲劇をはじめ、プルードンの社会思想、フォイエルバッハやショーペンハウアーの哲学など、多岐にわたる知が結集されている。
 この作品は、劇詩が成立するまでの過程も独特であった。1848年夏にゲルマン神話の英雄ジークフリートを主人公にしたエッセイ「ウィーベルンゲン一族」を書いたワーグナーは、続けて、後の《指環》の大略というべき「ニーベルンゲン神話」、そして《神々のたそがれ》の前身となる「ジークフリートの死」の散文草稿を作成した。しかし、これを劇詩にする段階で、前史をドラマ化する必要性を感じたワーグナーは、ジークフリートがブリュンヒルデを深い眠りから目覚めさせるまでの活躍を描いた「若きジークフリート」(後の《ジークフリート》)、さらに遡(さかのぼ)ってジークフリートの両親の物語とブリュンヒルデが処罰されるに至った経緯を描いた「ワルキューレ」、魔法の指環に封じ込められる呪いの動機づけと指環をめぐる登場人物たちの思惑などを設定した「ラインの黄金の掠奪(りゃくだつ)」(後の《ラインの黄金》)という具合に、新たに3つの草稿を作り、順序を逆行したかたちで全体を4部作へと拡大していったのである。作曲の方は、これとは反対に、《ラインの黄金》から《ワルキューレ》、《ジークフリート》、《神々のたそがれ》へと順次着手された。
 19世紀初頭に神聖ローマ帝国が崩壊した後、統一国家樹立へ向けて動き始めたドイツでは、民族意識が急激に高まり、ゲルマン神話や伝説に強い関心が寄せられた。ワーグナーが《指環》創作に取り組んだ背景に、こうした社会的・歴史的事情があったことは見落とせない。
 一方で《指環》には、ワーグナー個人の世界観も反映されている。芸術家として大成するまでに紆余曲折(うよきょくせつ)をたどり、多くの辛酸をなめたワーグナーは、利潤追求を最優先する現代社会において芸術が不当な扱いを受けていることを痛感し、これを徹底的に批判した。彼は総合芸術作品を創造するには、まず社会そのものを変革し、人が金力の支配から脱しなければならないと考えるようになる。《指環》の構想が生まれた当初、ジークフリートの死は、不正にまみれた世界を是正し、自由と解放をもたらすための契機として描かれていた。ドレスデン蜂起(ほうき)に参加し、国外追放になってもなお、拝金主義に染まったパリ炎上のヴィジョンを抱いていたワーグナーの革命へのパトスは、ワルハラ炎上に投影されている。《指環》ではその火と、手つかずの自然ともいえるライン河の水とがコントラストをなし、さらには天上界・地上・地下世界という三層空間に、過去・現在・未来という時間軸が交差しながら、作品全体に緊迫感や壮大な奥行きを与えている。
 《指環》の音楽における最大の特徴は、4部作全体にわたって緻密(ちみつ)に張り巡らされた示導動機(ライトモチーフ)の技法であろう。《指環》全体で約100種類あるといわれるその動機は、さまざまな登場人物、物、出来事、概念などを表す他、登場人物たちの内なる心情やその変化をも詳(つまび)らかにする。それらの動機は互いに複雑に絡み合いながら、舞台上で繰り広げられていることと連動して、まさに総合芸術としてのドラマを推し進めていくのである。
 音による表現の可能性を探ろうとしたワーグナーは、《指環》を作曲するにあたり、ひとつの新しい楽器を考案した。ワーグナー・テューバといわれる楽器である。8人いるホルン奏者のうち4人がもち替えて演奏することになっているのだが、細い管の付いた卵形のその楽器は、構造上音程を取るのが難しいとされ、使用されている曲は少ない。通常のテューバでは出せない神々しい響きを求めて考案されたこの楽器、今回の演奏曲目では、《ラインの黄金》の〈ワルハラ城への神々の入城〉や《神々のたそがれ》の〈ジークフリートの葬送行進曲〉などで活躍する。
 管弦楽演奏の魅力的な点は、どの楽器によって演奏されているかが一目でわかるところにある。ワーグナーがそれぞれの楽器にどのような役割を与え、どのような響きを必要としたのか考えながら聴くというのも、一興だろう。

楽劇「ワルキューレ」より「ウォータンの別れと魔の炎の音楽」
 ウォータンの真意を汲(く)みつつもその命令に背いた罪により神性を剥奪(はくだつ)されるブリュンヒルデ。父と愛娘との永遠の別れは切ない。彼女は無力になる自分の周りを臆病者には決して通り抜けられない炎で囲んで欲しいと哀願し、ウォータンは彼女の願いを聞き入れる。2人は、その炎を越えられるのが真の勇者ジークフリートただひとりであることを知っている。背後では「ジークフリートの動機」が見え隠れする。ちらちら揺れる炎から燃えさかる大火へと変わる魔の炎の音楽描写は、目に見えるような迫力で迫ってくる。

楽劇「ワルキューレ」―「ワルキューレの騎行」
 雄叫(おたけ)びを上げ天空を駆け巡る戦乙女ワルキューレたちの騎行の音楽は、とりわけ映画「地獄の黙示録」の中で効果的に使用され、有名になった。木管楽器のトリル、弦楽器による急速でスリリングな上行・下行音、金管楽器による勇壮な旋律など、ダイナミックな響きで高揚感をかき立てる。

楽劇「ジークフリート」―「森のささやき」
 ひっそりとした森の中で木の葉が風にそよぎ(弦楽器)、小鳥の声が透明感のある音色であたりに響きわたる(木管楽器)。そのさえずりはジークフリートの胸中に潜んでいた、見たことのない母への憧憬(どうけい)、そして女性への憧憬の念に火をつけ、彼の心は炎のように熱く燃え始める。

楽劇「神々のたそがれ」―「ジークフリートの葬送行進曲」
 「死の動機」に混じって、「ウェルズングの苦難の動機」、「ウェルズングの愛の動機」、「剣の動機」、「ジークフリートの英雄の動機」などが次々に奏でられ、ジークフリート誕生に至るまでの経緯と彼の人生のあれこれが走馬灯のように浮かんでは消えていく。そこに「アルベリヒの呪いの動機」が織り込まれ、この英雄の死がその呪いと関連づけられる。

楽劇「神々のたそがれ」―「夜明けとジークフリートのラインの旅」
 陽光降り注ぐ朝の光景。ブリュンヒルデはジークフリートとお互いの愛情を確かめ合うと、冒険心にはやる英雄の旅立ちを見送る。オーケストラは躍動感あふれる音楽を展開した後、ラインの黄金が掠奪(りゃくだつ)されたいきさつを回想していく。「指環の動機」が現れるあたりから、曲調は暗く重苦しい響きに変わる。この先起こる悲劇を予告しているかのようだ。

楽劇「ラインの黄金」―「ワルハラ城への神々の入城」
 神々たちがひとまず目の前のトラブルを回避し、完成したばかりの壮麗な城へと虹の橋をわたっていく。金管楽器による荘厳な「ワルハラの動機」にのって華やかなフィナーレといったところだが、ほの暗い「指環の動機」が入り混じり、はるか下のライン河からは黄金を奪われたラインの乙女達の嘆き声が聞こえてくる。

作曲年代:[劇詩完成年]1852年 [ラインの黄金]1853~1854年 [ワルキューレ]1854~1856年 [ジークフリート]1856~1871年 [神々のたそがれ]1869~1874年
初演:[ラインの黄金]1869年9月22日、ミュンヘン宮廷歌劇場 [ワルキューレ]1870年6月26日、ミュンヘン宮廷歌劇場 [ジークフリート]1876年8月16日、バイロイト祝祭劇場 [神々のたそがれ]1876年8月17日、バイロイト祝祭劇場 [4部作通し上演の初演]1876年8月13、14、16、17日、バイロイト祝祭劇場

(鈴木淳子)