プロコフィエフ (1891~1953)

交響曲 第7番 嬰ハ短調 作品131「青春」(約32分)

 1936年、ソ連に完全帰国を果たしたプロコフィエフは、つづく10年間、ショスタコーヴィチと並んでソ連最高の作曲家として君臨しつづけ、その創作力はナチス・ドイツとの戦争時にピークに達した。勝利が間近となった1945年、プロコフィエフは、偶然の一致にせよ「第5番」という象徴的な番号をもつ交響曲によって、ソ連の国民的作曲家としてのキャリアの頂点を極めたのである。しかし皮肉にもこれが最後の栄光となった。この直後に起きた転倒事故は健康状態の衰退の最初のきっかけとなり、さらに1948年のジダーノフ批判は、それまでに築き上げてきた名声を一挙に奪ってしまった。それからプロコフィエフの人生に残された時間は、わずか5年間だったのである。
 待ち望んだ名誉回復のきっかけは1952年、公式イデオロギーに沿った2つの作品──ピオニールを題材とする合唱曲《冬のかがり火》と、ショスタコーヴィチの《森の歌》に類した《オラトリオ「平和の守り」》の成功によってもたらされる。それ以降、スターリン60歳を記念する《カンタータ「乾杯」》や《バレエ「シンデレラ」》が久しぶりに再演され、健康状態の悪化と困窮した生活状況を見かねた文化官僚の取り計らいで恩給の支給が決定される。こうした流れのなかで、児童向けラジオ番組用に、新しい交響曲の作曲がプロコフィエフに委嘱される。厳しい形式主義批判の標的となった前作以来5年ぶりの《交響曲第7番》である。
 スターリン時代末期、多くの作曲家がプロパガンダ的な標題を持たない交響曲ジャンルを敬遠するなか、「子供のための」という委嘱理由は作曲の口実として役立ったことだろう。後にプロコフィエフはこの作品が成人にもアピールすると考えて「青春への贈り物」と呼び、「我が国の若者の精神的美しさや強さ、人生の喜び、そして未来へと向かう希望を反映しようと試みた」と説明した。さらに1962年、あるインタビューに対して未亡人のミーラ(2番目の妻)は、この交響曲が「ソビエトの若者だけでなく、プロコフィエフ自身の青春にも向けられていた」と答えている。これらの発言の真偽を疑う必要はないだろう。表面的には社会主義リアリズムの要求を満たしつつも、平明簡潔というにはあまりにも味わい深くノスタルジックなこの作品は、最晩年のプロコフィエフの心境をありのままに伝えている。

第1楽章 モデラート、嬰ハ短調、4/4拍子。3つの主題によるソナタ形式だが、ドラマチックな展開は回避され、それぞれ個性的な主題の自由な変容が中心である。広々して甘美な第2主題と、玩具(おもちゃ)時計のような印象的な第3主題は、交響曲の最後に回帰する。
第2楽章 アレグレット、ヘ長調、3/4拍子。チャイコフスキーやプロコフィエフ自身のバレエの一場面を思わせるワルツであり、3つの主題がメドレー風に交替する。時折見せるカリカチュア風の表現や自由奔放な跳躍音型に、若き日の作曲者の相貌が垣間見える。
第3楽章 アンダンテ・エスプレッシヴォ、変イ長調、4/4拍子。晩年のプロコフィエフ作品の特徴である高貴な叙情性にあふれる緩徐楽章だが、実際には、1936年に作曲された《劇音楽「エフゲーニ・オネーギン」》からの主題と変奏の転用である。プーシキン生誕100周年を記念するこの演劇プロジェクトは、当時の文化政策の転換により強制的に中止され、その音楽は後の作品(《歌劇「戦争と平和」》など)に転用された。ハープとピアノのアルペジオを背景に、フルート独奏と弦楽器のトレモロで主題が再現される最後のページの儚(はかな)さは、失われた時代へのノスタルジーを痛切に感じさせる。
第4楽章 ヴィヴァーチェ、変ニ長調、2/4拍子。舞曲を得意としたプロコフィエフの面目躍如としたロンド・フィナーレ。ギャロップ風のロンド主題と気忙しい表情のエピソードや中間部の行進曲風のエピソードが交替する。最後のロンド主題再現を受けて、第1楽章の第2主題が青春時代への讃歌のように回帰するがそのままハッピーエンドには向かわず、人生の時を刻むような第1楽章の第3主題が、微笑(ほほえ)みとも諦(あきら)めとも言い難い表情を浮かべつつ、余韻深く全曲を閉じる。
 初演後、指揮者サモスードの勧めにより、スターリン賞第1席を取るためにギャロップ主題を最後に加えた賑(にぎ)やかな別エンディングを作成したが、プロコフィエフはあくまで当初の結尾を本来的と考えていた。廃止されたスターリン賞に代わって、この作品がレーニン賞を受賞したのは、作曲者の死から4年後の1957年であった。

作曲年代:1951年12月~1952年7月
初演:1952年10月11日、サムイル・サモスード指揮、ソビエト・ラジオ放送管弦楽団、モスクワにて

(千葉 潤)