ベートーヴェン (1770~1827)

交響曲 第3番 変ホ長調 作品55「英雄」(約47分)

 本作品の公開初演は、1805年4月7日で別記データの通りだが、これよりおよそ1年前の1804年5月末あるいは6月初めにはウィーンのロプコヴィツ侯の邸宅で非公開試演がなされていた。また、同年初秋にはプラハの北方約50kmのラウドゥニツェという町にあるロプコヴィツ侯の居城で、プロイセンのルイ・フェルディナンド王子を招いて侯爵家楽団楽長アントン・ヴラニツキの指揮によって少なくとも3回演奏されていた。こうしたロプコヴィツ侯の独占的占有権の期間を経て、ベートーヴェンは1804年11月3日と同5日に《交響曲第3番》と、(同じくこの時期に侯の居城で試演されていた)《ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための三重協奏曲》の献呈に対する謝礼金を受領している。これを期に独占的占有期間から解放され、1805年1月20日はウィーンの裕福な銀行家ヴュルトの邸宅で私的な演奏会が開かれ、クレメントの指揮により演奏されている。したがって、公開初演より前に少なくとも5回ほど演奏されていた。
 作曲完成から公開初演にいたるまでの経過をみただけでも、この交響曲が特別なものであった様子が窺(うかが)える。この間に伝説的に語り継がれてきたナポレオンへの献辞をめぐるエピソードもある。不運な事情で消失してしまった自筆譜は当初ベートーヴェンが弟子のフェルディナント・リースに贈ったものであるが、そのリースが後年の回想で語っているところによると、ベートーヴェンはナポレオンが皇帝に即位するという報(しら)せを聞いて憤慨し、ナポレオンへの献辞の書かれた表紙を引き裂いた、ということだ。しかし、それがナポレオンの皇帝宣言の1804年5月20日の直後なのか、同年12月2日にノートルダム寺院で行われた皇帝戴冠式の直後のことなのか明確でないばかりか、表紙は引き裂かれたのではなく、現在もウィーンに所蔵されているシンフォニア・グランデと大書された浄書スコア譜上の「ボナパルテと題する」という部分をペン先で激しく掻(か)き消したことを指している可能性が大きいようだ。作品成立事情の背景にあるナポレオンとの関連はさておくとして、交響曲の様式史に大転換をもたらしたと言ってもよい《エロイカ》の革新的な音楽特性を概観しておこう。
 全体的なことでは作品規模の巨大さだ。第1楽章のソナタ形式が提示部・展開部・再現部という単純な3部分ではなく、再現部の後に提示部の規模に匹敵するほどの終結部(第2の展開部という性格も持つ)があり、大きな4部分構成となっている。しかも、伝統的に展開部の規模は提示部を1とすれば、長くても0.7ほどであったものが、ここでは驚くことに1.63倍になっている。楽章構成も、長調交響曲としては異例の短調緩徐楽章で、しかも葬送行進曲となっている。第3楽章のスケルツォでは、そのトリオ部に従来の楽器法にはなかったようなホルン三重奏によるトリオ主題を置いている。第4楽章は、異例の変奏曲によるフィナーレで、その主題は1800年に作曲したバレエ音楽《プロメテウスの創造物》(作品43)の終曲を使っているが、変奏技法はすでに1802年に作曲したピアノ用の変奏曲《自作主題による15の変奏とフーガ(エロイカの主題による変奏曲とフーガ)》(作品35)と同じように、本来の主題をバス声部とソプラノ声部に分けて、まず、バス声部を2声部、3声部、4声部というようにポリフォニックに扱ってから、ようやく《プロメテウス》主題のソプラノ旋律がオーボエ、クラリネット、ファゴットによって明るく歌われ、すべての変奏主題を提示する。

第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ、変ホ長調、3/4拍子。
第2楽章 葬送行進曲:アダージョ・アッサイ、ハ短調、2/4拍子。
第3楽章 スケルツォ:アレグロ・ヴィヴァーチェ、変ホ長調、3/4拍子。
第4楽章 終曲:アレグロ・モルト、変ホ長調、2/4拍子。

作曲年代:1803年(完全脱稿は1804年初頭)
初演:1805年4月7日、アン・デア・ウィーン劇場で劇場ヴァイオリニストのF.クレメント主催のコンサートで公開初演

(平野 昭)