ベルワルド (1796 - 1868)

交響曲 第3番 ハ長調「風変わりな交響曲」(ブロムシュテット校訂版)(約28分)

 フランツ・アドルフ・ベルワルドは、おもに19世紀前半に活躍したスウェーデンの作曲家である。音楽家の家系に育ったベルワルドは、宮廷歌劇場ヴァイオリニストの父から音楽の手ほどきを受け、10歳の時にヴァイオリニストとしてデビュー。さらに作曲を独学し、管弦楽曲や協奏曲を10代後半で創作するなど、少年期より優れた才能を垣間(かいま)見せた。
 しかしその後の人生は波乱万丈で、父が1825年に亡くなると、経済的苦境に陥(おちい)っていく。そこで心機一転、ベルリンに渡って創作活動を続けるものの、作曲家としては十分に認められない不遇の日々を送った。ベルリン滞在中、生計を立てるためベルワルドは整形外科と理学療法の診療所を開業。それで財を築くことに成功し、ウィーンやパリに移って再び創作活動に打ち込むようになる。やがてベルワルドはスウェーデンに帰国。しかし作品がただちに評価されることはなく、ガラス器工場を経営するなど、やはり音楽以外のビジネスで生計を立てざるをえなかった。ようやく作曲家として認められたのは最晩年であったが、時すでに遅く、創作に向かう力は彼に残されていなかった。
 1796年生まれのベルワルドは、ウェーバーやシューベルト、ベルリオーズとほぼ同世代である。青年期には巨匠ベートーヴェンの活躍を目の前にし、創作の円熟期を迎える頃にはメンデルスゾーンやシューマン、リスト、ショパンらの傑作が世を席巻(せっけん)していた。ベルリンやウィーン、パリに長く滞在していたベルワルドは、古典派から盛期ロマン派へと向かいつつある音楽界のダイナミックな変動を肌で感じたことだろう。それでもベルワルドは刻々と変化する音楽界の動向に無用に流されることなく、独自のスタイルを築き上げることに成功した。その不思議な音楽の特徴を一言でいうなら、「ポスト古典主義時代を飄々(ひょうひょう)と駆け抜けた北欧的大らかさ」と形容できるだろう。
 ベルワルドの音楽が決定的な評価を受けたのは、作曲家没後のことである。彼の《ピアノ五重奏曲》を初見で弾き、その出来栄えを高く評価したリストのような音楽家もいたが、大方はベルワルドのことを「想像力とファンタジーに欠ける作曲家」(ハンスリック評)とみていたようだ。その後、アウリンやステンハンマルら、スウェーデンの音楽家がベルワルド作品の普及に尽力。20世紀に入る頃には、「スウェーデンのもっとも独創的でモダンな作曲家」(ペーテション・ベリエル評)とみなされるようになる。ちなみにデンマークの作曲家カール・ニルセンは1911年、ベルワルドについて次のように述べている。「どんなメディアもお金も権力も、優れた芸術を害することはできない。そうした例は、自作品のためにつねに実直で前向きであった芸術家の内に見出すことができよう。スウェーデンのベルワルドこそ、その最上例である」。
 あらゆるジャンルで作品を残したベルワルドの音楽的エッセンスは、4つの交響曲に凝縮されている。それらの個性的な交響曲は、1842~1845年の間に立て続けに創作された。ただし作曲家の生前に演奏されたのは《第1番》のみで、《第2番》に至ってはベルワルドの没後、自筆スコアが紛失してしまった。そのため《第2番》の楽譜は20世紀初頭、エルンスト・エルベルイがスケッチをもとに新たに再構成したという経緯がある。なお4つの交響曲にはそれぞれタイトルが付され、《第1番「厳粛な交響曲」》、《第2番「気まぐれな交響曲」》、《第3番「風変わりな交響曲」》、《第4番「素朴な交響曲」》(《第4番》に関してはスコアに標題の表示がない)と呼ばれている。
 《第3番「風変わりな交響曲」》の完成は1845年だが、スウェーデンの作曲家トゥール・アウリンの指揮で初演されたのは60年後の1905年である。その際、アウリンが曲に修正の手を加えてしまったことから、指揮者ヘルベルト・ブロムシュテットがベルワルドの意図に沿った新版を1965年に作成している。
 《風変わりな交響曲》は、そのスケールの大きさとウイットに富んだ曲想が特徴的な、ベルワルドの代表作といえる。
 交響曲は3つの楽章からなる。
 ソナタ形式の第1楽章は、冒頭に現れる穏やかな4度下行音型が重要な役割を果たす。やがて印象的な主題が次々と登場し、意想外な転調を繰り返しながら大きな盛り上がりをみせる。穏やかな表情で始まるアダージョの第2楽章は、中間部に急速なスケルツォを配置したユニークな構成。伝統的な交響曲の第2楽章と第3楽章を融合したその特異なデザインは、後の作曲家シベリウスのそれを思わせる。プレストの第3楽章はハ短調で劇的に幕を開けた後、輝かしいハ長調の終結部へ向けて力強く疾走していく。終始、美しい旋律が躍動感あふれるリズムで彩られる、ベルワルド流の壮大なフィナーレである。

作曲年代:1845年
初演:1905年1月10日、トゥール・アウリン指揮、王立ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団

(神部 智)