ブラームス (1833~1897)

交響曲 第1番 ハ短調 作品68 (約51分)

 《ドイツ・レクイエム》の完成によって偉大な創作の道筋をつけ、3曲の弦楽四重奏曲、《ピアノ四重奏曲第3番》の完成をもって独自の作曲語法を確立したブラームスにとって、《セレナード》以来、14年ぶりに取り組んだ管弦楽作品《ハイドンの主題による変奏曲》の後に残された課題は交響曲であった。
 《第1番》の交響曲は最初の構想から完成までに約20年以上の年月を要した。ブラームスは1855年にハ短調の交響曲の構想をもち、2台のピアノ用のソナタをもとに交響曲に仕立てる試みを行った。その後、1862年にクララ・シューマンに交響曲の第1楽章を送り、それをピアノで弾いて聴かせており、クララは7月1日付の手紙でヨアヒムに次のように書き送っている。「ヨハネスが少し前に私に最初の交響曲の第1楽章を送ってきました。どんなに驚いたことか。それは次のように大胆に始まります」。クララはこの文章に冒頭部分の譜例を添えているが、そこには序奏はなく、フォルテでドが鳴らされた後、現在のアレグロの部分から始まっている。続けてクララはこう記す。「それはちょっと難しいのですが、私はすぐに馴染(なじ)みました。楽章は素晴らしい美しさに満ち、モチーフは見事に扱われていて、ますます巨匠らしさが彼の身についてきたようです。すべてがとても興味深いやり方で織り上げられています」。しかし序奏部分を欠く第1楽章は完成稿における偉大でモニュメンタルな性格からは程遠い。
 1862年にクララの前で演奏して以降、1876年までこの交響曲の創作の進捗(しんちょく)をうかがわせる資料はない。1868年にクララの誕生日のためにブラームスはスイスからお祝いの手紙に添えて、アルペンホルンの旋律を記す。その旋律はその後、第4楽章の序奏の主題に採り入れられ、交響曲に崇高な気品を与えているが、1868年の時期はまだ交響曲との結びつきはなかったと見られる。その後も、交響曲の作曲がブラームスの脳裏から離れることはなく、さらに出版人のフリッツ・ジムロックからも「交響曲のことを忘れないように」との催促を受けていた。ブラームスの逡巡(しゅんじゅん)は、ベートーヴェンの伝統の継承もさることながら、19世紀後半における交響曲創作の意義にあったと思われる。作曲の最終段階で第1楽章に序奏が付加されて、この交響曲全体の性格が決定された。この作品の独自性のひとつは、重々しいティンパニを伴う重厚な書法を駆使した序奏部分にあるといっても過言ではない。
 ブラームスが《第1番》に本格的に取り組むのは1876年に至ってからで、同年10月、ブラームスはヨアヒムとジムロックへの手紙で同年11月4日の初演を約束する。作品を書き上げると彼はピアノでクララの前で全楽章を弾いて聴かせる。それについてクララは日記に「10日、ヨハネスが彼の交響曲全部を私に弾いて聴かせてくれました。私は悲しみ、打ちのめされたことを隠すことができません」と記している。作品は1876年11月4日、デッソフ指揮でカールスルーエにて初演されたが、この時の楽譜は最終稿ではない。ブラームスは初演後にパート譜を回収し、さらに推敲(すいこう)を重ねていったが、初演稿のパート譜の一部に回収漏れがあり、図らずも今日初演稿を垣間見ることができる。つまり、第2楽章のヴァイオリンとヴィオラのパート譜が発見され、このパート譜をもとに初演時の響きが再現されている。復元された初演稿はその響きや作品構成も完成稿とは異なる。

第1楽章 序奏ウン・ポーコ・ソステヌート─主部アレグロ、ハ短調、6/8拍子。壮大な序奏で開始する。宿命的な印象を醸(かも)し出すティンパニの連打がこの交響曲の性格を決定している。続いてアレグロの主部に入り、主要主題が提示される。楽章はソナタ形式で構成され、主題の動機が入念に展開される。第1楽章は同じく序奏をもつ第4楽章とシンメトリックな構成となっている。
第2楽章 アンダンテ・ソステヌート、ホ長調、3/4拍子。初演稿はABACAの5部分で構成されていたが、初演後指揮者のデッソフの意見および彼の推敲を経て、出版譜ではABAの構成に改変された。
第3楽章 ウン・ポーコ・アレグレット・エ・グラチオーソ、変イ長調、2/4拍子。優美な楽章で、間奏曲としての性格をもっている。彼の友人の指揮者ヘルマン・レヴィはこの楽章と第2楽章を「セレナードか組曲向き」と述べている。
第4楽章 序奏アダージョ─主部アレグロ・ノン・トロッポ、マ・コン・ブリオ、ハ短調(ハ長調)、4/4拍子。序奏に続いて、主部はハ長調で素朴で堂々とした主題が提示される。ハ短調の第1楽章に始まり、ハ長調でフィナーレを締めくくるという手法は、ベートーヴェンの《交響曲第5番》を継承している。

作曲年代:1855年、1862年、1868年、1876年
初演:1876年11月4日、第1回予約演奏会、オットー・デッソフ指揮、カールスルーエ宮廷管弦楽団

(西原 稔)