シューベルト (1797 - 1828)

交響曲 第8番 ハ長調 D.944「ザ・グレート」(約51分)

 「……ひとことで言うと、僕は自分が世界でもっとも不幸でみじめな人間だと感じているのです。健康がもう二度と回復しようとせず、そのことに絶望するあまり、物事をいつも良いほうではなく悪いほうにとってしまう人間のことを考えてみてください……愛と友情の幸福は、いまやこの上ない苦痛でしかないし、美への熱狂は消え去ろうとしています……」(1824年3月31日の手紙)
 3月も終わりに近づくと、ウィーンはとたんに春めく。復活祭の声を聞く頃には、待っていたとばかりに人々も軽やかな装いで戸外に集うようになるが、しかし193年前の春風はフランツ・シューベルトを暖めはしなかったようだ。前年頃に発症した梅毒のもたらす痛みは周期的に増幅しつつ襲いかかり、入院中に受けた水銀治療はさらなる苦痛によって心身を疲弊(ひへい)させた。多くの喜びと悩みを共にしたショーバーやクーペルウィーザー(この手紙の受け取り手だ)といった同年代の親友は、それぞれの人生航路を進むべく遠い異国の地へ旅立ち、かつて理想を分かちあった友人サークルは瓦解(がかい)した。今度こそは、と満を持して作り上げた《歌劇「フィエラブラス」》は、さながら伏魔殿のように見通し難いウィーンの劇場業界の渦中でまたもや上演中止の憂(う)き目にあい、このジャンルでの成功の希望は潰(つい)えた。くり返し襲ってきたこれらの不幸の爪痕(つめあと)が、手紙には強くにじみ出ている。
 だが、現実での喪失をただちに高い視点から眺めなおし、喪失をも創作の糧(かて)にしてさらに「外」へ向かって自らを開いてゆくこと。そこにこそシューベルト後期の音楽をつらぬく原動力はあった。新たに手がけた「器楽作品」を足掛かりにして「僕は大交響曲(die große Sinfonie)への道を開こうとしているのです……」。手紙の後半部分はそう続く。
 ここでいう「器楽作品」、つまり弦楽四重奏曲(D.804、810)などの室内楽は、王室のヴァイオリニスト、I.シュパンツィヒ(1776~1830)が手がけていた公開演奏会プロジェクトを念頭に置いて作られたものだ。これらの作品は、《未完成交響曲》(終楽章は一音符たりとも書かれなかった)の作曲がつい1年半前だとは到底思えないほどの堂々たる充実ぶりを見せている。私的な断片から公的な威容へ──心機一転、社会的な要因にうまく乗じてなされたこの転換が、後期への「道」を開いたのだ。さらに、歌曲においてもシューベルトはすでに、創作活動の基盤だった内輪の友人サークルが散開し、それまでの親密さを失っていくのに呼応するようにして、作品の均衡や客観的な完結性を意識するようになっていた。「内」に沈潜する叙情詩の歌い手は、「外」を見すえた叙事詩の語り部へと、ジャンルを超えて着実に変貌(へんぼう)していたのである。
 さて、《大交響曲》の音楽は、スケッチではなく総譜にいきなり音符を書き入れ、あとで手を加えるという「総譜草稿」のかたちで伝えられている。それは、音楽がよどみなくあふれだすシューベルトならではの作曲法だったが、長年にわたって何段階にもおよぶ推敲(すいこう)がほどこされている点で、この作品は際立っている。すなわち1825年の夏から翌年にかけて、まず主な声部が最後までほぼ通して記入された(シューベルトの頭の中では、この段階で作曲は実質上、完了していたはずだ)。次いでほかの楽器の声部や和声や強弱記号などが充填(じゅうてん)され、10月に楽友協会に作品を献呈してからも、何度かに分けて鉛筆で細部の修正がほどこされた。
 実質的な作曲がなされた1825年夏の出来事にはぜひ触れておきたい。生涯で最大の遠出となったこの年のオーストリア西部への大旅行によってシューベルトは、盛夏のグムンデンに広がる湖水地方の雄渾(ゆうこん)な自然を目のあたりにした。「天国のようです」とその景観を称える兄宛の手紙や、《ピアノ・ソナタ》(D.850)などの作品に息づくその感動は、《大ハ長調交響曲》の随所にも刻印されている。特にこの作品は、「同じ音の反復」が全楽章を多様な姿で貫く動機(モティーフ)にまで高められた稀有(けう)な実例であるが、ここでの同音反復は、山麓(さんろく)の威容がさまざまな角度から見せる崇高な表情そのものであるかのようだ。大自然がはらむ無限の霊感もまた、若き作曲家の視野を「外」へと開いたのだった。

第1楽章 アンダンテ─アレグロ、マ・ノン・トロッポ。
第2楽章 アンダンテ・コン・モート。
第3楽章 スケルツォ:アレグロ・ヴィヴァーチェ。
第4楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ。

作曲年代:1825年夏から1826年春にかけて大半を記譜。以後、最晩年にいたるまで改訂を続ける
初演:1839年3月21日、ライプツィヒのゲヴァントハウスにて。同年1月に兄フェルディナントよりシューマンを介して筆写総譜を贈られたメンデルスゾーンが指揮

(堀 朋平)