ニルセン (1865 - 1931)

交響曲 第5番 作品50 (約35分)

 カール・ニルセンはデンマークを代表する20世紀の作曲家である。オペラをはじめ、協奏曲や室内楽、歌曲、ピアノ曲など、あらゆるジャンルに手を染めたニルセンだったが、もっとも重要なのは6つの交響曲だろう。《第1番》(1892年)から《第6番「素朴な交響曲」》(1925年)までの創作期間は、同年生まれのフィンランドの作曲家ジャン・シベリウスのそれとほぼ重なることから、両シンフォニストが比較されることも少なくない。
 だが幽遠なシベリウスの音楽とは異なり、ニルセンの作風はウィットとユーモアに満ちあふれ、響きもシャープで大陸的な大らかさ、人間臭さがある。その一方、複雑な転調や手の込んだ対位法、打楽器を主軸としたオーケストレーション等にはニルセン特有の現代的感覚を垣間見ることができ、前述のユニークな作風とあいまって、この作曲家の個性を際立たせる要素となっている。
 ニルセンの6つの交響曲のうち4つに標題が付されているが、《第1番》と《第5番》(1922年)に限っては音楽外的想念の手がかりとなるタイトルがない。そのためポピュラリティの点では、《第3番「広がり」》(1912年)や《第4番「不滅」》(1916年)に一歩譲るとみる向きもある。しかし初期の《第1番》はともかく、56歳の時に発表された《交響曲第5番》はニルセン円熟期に手がけられていることもあり、作品の表現世界をイメージさせるタイトルがなくても、この作曲家の精神性を十分に味わうことのできる傑作に仕上がっている。《第5番》の世界観は有名な《第4番「不滅」》の延長上に位置付けることができるが、前作をはるかに上回る完成度と大胆な書法には、目を見張るものがあろう。
 《交響曲第5番》にニルセンが着手したのは1921年の春頃であったと考えられている。その後、カンタータ《フューン島の春》作曲のためいったん創作が中断するものの、1922年1月15日には書き終えて(完成日がスコアに記載されている)、すぐにコペンハーゲンでの初演となった。
 初演の新聞評はおおむね好評だったと伝えられている。もっとも、評論家たちの語り口には手厳しいものもみられ、「本当の音楽芸術は楽曲後半にこそ真価が問われるべきなのに、この作品はまさにその部分が崩壊してしまっている」(アウグスト・フェルシング評)と述べる者もいた。しかし現在では、その後半部分こそニルセン芸術の真骨頂とする見解が定着しており、20世紀を代表する傑作交響曲としての高い評価を得ている。
 《交響曲第5番》のデザインは非常にユニークであり、古典的な4楽章制を取らず、大きな2つの楽章からなる。第1楽章と第2楽章の規模(演奏時間)はほぼ同じであるが、それぞれの構成はまったく異なり、テンポや曲想に着目すると第1楽章はさらに2つの部分、第2楽章は4つの部分に分けることができる。ただし楽想同士が非常に有機的に連関しているため、「エピソードの連続」という散漫な印象はまったく受けない。

 第1楽章は、まず繊細なヴィオラの律動で静かにはじまる。それを背景にほかの楽器も加わってくると、上記の律動が少しずつ旋律の輪郭を描くようになる。そしてさまざまなフレーズが複雑に絡み合い、多彩な音響世界が生みだされていくのである。しかし小太鼓の突然の導入とともに、軍楽的な音調へと変貌(へんぼう)を遂げてしまう。続いて古典的な交響曲の緩徐楽章に相当する部分へと一気に場面転換し、霧が晴れるように明るくなって、壮麗な世界が目の前に広がる。伸びやかな弦楽器が主導するこの場面でも、やがて小太鼓が執拗(しつよう)に介入(「オーケストラの進行を止めるように」と指示)してきて精神的な葛藤(かっとう)が繰り広げられるが、最後は巨大なクライマックスを迎えて収束する。
 第2楽章はスケルツォ的な要素や緩やかな部分を含んでいるため、それ自体が「単一楽章の交響曲」のような構成を有している。加えて、多様な曲想のうちに精妙なフーガが織り込まれるなど、きわめて緻密に設計されたデザインは、シベリウスの《交響曲第7番》(1924年)にも匹敵するほどの密度の高さを誇っている。
 《交響曲第5番》の独創性あふれる表現に関しては、「人間の精神的な闘争」(ロバート・シンプソン評)とみる評論家もいるが、いずれにせよ円熟期ニルセンの世界観がもっとも純粋な形であらわれた音楽、といってよいだろう。

作曲年代:1921春~1922年1月
初演:1922年1月24日、カール・ニルセン指揮、コペンハーゲン音楽協会にて

(神部 智)