ラフマニノフ (1873 - 1943)

ヴォカリーズ

 ラフマニノフの代表曲のひとつ《ヴォカリーズ》は、もともとは《ソプラノとピアノのための歌曲集》(作品34)の最終曲である。ヴォカリーズとは歌詞を伴わずに母音だけで歌う歌唱法を意味する。
 作曲時期については文献によって混乱が見られるが、最終的に1915年9月に原曲の決定稿ができたとされ、曲はアントニーナ・ネジダーノヴァに献呈された。ラフマニノフはこの名ソプラノ歌手に絶大な信頼を寄せていた。「この作品には歌詞がなくて残念」と言うネジダーノヴァに対し、ラフマニノフは「あなたは他の人が言葉で表現するよりもずっとうまく、豊かに、声と歌ですべてを表現できるではないですか。それなのになぜ歌詞が必要なのです」と答えたという。作曲の途中でラフマニノフは何度も彼女に相談し、2人で演奏しながら細部を詰めたと言われ、曲にはかなりネジダーノヴァの助言が反映されている。
 1916年2月の初演はソプラノ+オーケストラ伴奏版で行われたが、その成功を受けてラフマニノフは1919年にさらにオーケストラ単独版へと編曲した。現在では原曲のソプラノ独唱やオーケストラ以外にも様々な独奏楽器によって広く演奏される。
 なお、歌詞を伴わないヴォカリーズの作曲は、詩から意味を解放しようとしていた当時の芸術潮流であるロシア象徴主義の志向に呼応していたと指摘されることもある。ラフマニノフ以外にストラヴィンスキーやグリエール、メトネルらも優れたヴォカリーズ作品を20世紀前半に残しており、ロシア声楽史の観点からも興味深い。
 曲は連続する和音による伴奏で始まり、憂いを含む旋律が流れ始める。これはラフマニノフが好んだグレゴリオ聖歌《怒りの日》の引用と言う者もいる。この伴奏と旋律が動く中で、時折対旋律が絡んでいく様は、バロックの声楽曲を思い起こさせる。静かな哀調が基調となるが、抑制されつつも深い激情を秘めた世界を通過し、曲は冒頭と同じ連続する和音と共に静かに消えていく。

作曲年代:原曲のソプラノとピアノ伴奏版は1915年10月4日(旧ロシア暦9月21日)(決定稿)、オーケストラ版は1919年
初演:ソプラノ+オーケストラ版は1916年2月7日(旧ロシア暦1月25日)、ネジダーノヴァ独唱、クーセヴィツキー指揮、モスクワにて。オーケストラ版は不明

(高橋健一郎)