ベルク (1885~1935)

ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出のために」

 ウィーンの作曲家アルバン・ベルクは、1935年夏、ある少女の死に捧(ささ)げるヴァイオリン協奏曲を書き上げる。同年12月にベルクは急逝(きゅうせい)し、この曲は彼が完成した最後の作品となった。この曲を献呈された「天使」とは、アルマ・マーラーと彼女の2人目の夫ワルター・グロピウスとのあいだに生まれた娘マノン・グロピウスであった。ベルク夫妻もたいそうかわいがっていたマノンは、1935年4月に病のため18歳でこの世を去ってしまう。《協奏曲》は、アンダンテ―アレグレットの第1部とアレグロ―アダージョの第2部から構成されており、前半は天使のような美しい少女を、後半は襲いかかる病、そして死を描く、というプログラムをベルク自身が示唆している。第2部後半に織り込まれたバッハの《カンタータ第60番「おお永遠よ、いかずちの声よ」》中のコラール《われは満ち足れり》の旋律は、マノンへのレクイエムという印象を一層強めている。
 ベルクがこの曲に着手したのは、アメリカのヴァイオリン奏者ルイス・クラスナーから委嘱を受けた1935年2月のことであった。アルノルト・シェーンベルクの下で作曲を学んだベルクは、この曲でも師の提唱する十二音技法を用いている。ヴァイオリンの開放弦をなぞるソ―レ―ラ―ミのモチーフと三和音の連鎖とを含む基本音列は、元来無調を実現するために考案された十二音技法に、後期ロマン派的な浮遊する調性感を巧みに接続しており、ベルクらしい変容の手腕をよく示している。しかし、その見事な基本音列も、全体の構成も、実はマノンの訃報以前に出来上がっていたことが、ベルクの書簡等から明らかになっている。すると、彼の最初の構想は、いったいどのようなものだったのか。
 ベルクが小節数や音名に象徴的な意味を与え、耳には聞こえないプログラムを音楽に組み込む手法をよく用いていたことは、後年の研究により明らかになっている。この作品においても、例えば、第2部は230小節で構成されており、彼が自分の運命を表す数と考えていた「23」との関連を読み込むこともできる。──ならば、この頃すでに体調を崩していたベルクは数の象徴を用いて自身の生涯を回顧したとは考えられないか?また、最初期のスケッチには「4楽章:生き生きと(Ⅳ)、敬虔(けいけん)に(Ⅲ・コラール)、快活に(Ⅱ・レントラー)、自由に(Ⅰ・アンダンテ)」というメモが残されている。これはヒトラー青少年団に統合されたドイツ体操協会のスローガンと一致する。ベルクは後にバッハのコラールを用いることを決めてからも、それを第2部の最後ではなく前半に置くことを模索しており、順番へのこだわりを見せている。──ならば、ベルクはスローガンを逆順にすることで、ナチス・ドイツへの拒絶のメッセージを密かに込めようとしたのではないか?ベルク研究者によるこうした解釈は、いずれも魅力的な物語を想起させる。真実は明かされないままに残されているが、いくつものモチーフの緻密(ちみつ)な関係性のなかに秘めた意味を重ねあわせたその音楽は、謎めいた表情のままに不思議な魅力を放っている。

作曲年代:1935年
初演:1936年4月19日、バルセロナ、国際現代音楽協会音楽祭。ヘルマン・シェルヘン指揮、ルイス・クラスナー独奏

(澁谷政子)