ベルリオーズ (1803 - 1869)

テ・デウム

 1830年12月、26歳のエクトル・ベルリオーズは自身の出世作となる《幻想交響曲》を披露し、ローマへの留学を経て次々と大作を世に送り出す。1837年に作曲・初演された《レクイエム(死者のための大ミサ曲)》を委嘱したのはフランス政府(ベルリオーズの才能を高く評価していた内務大臣アドリアン・ド・ガスパラン伯爵)であった。本来ならば静かな曲調をともなうはずの〈ラクリモーサ(涙の日よ)〉に激しい曲を充て、得意の大編成を用いるなど、ベルリオーズの音楽性を知るのにこれほど格好な曲もない。
 だが、若くして政府の有力者に優遇され、巨大プロジェクトを次々と手がけていく、鼻っ柱の強い作曲家に対する世間の風当たりもまた強かった。1840年には再び政府からの依頼で《葬送と凱旋の交響曲》を作曲するも、周囲の嫉妬と敵視に晒(さら)され、フランス国内の劇場からは締め出され、不遇の時代をかこつようになる。一方で、そのような人間的なしがらみのない外国、とりわけドイツとロシアにおいて、ベルリオーズとその音楽は熱狂的に歓迎され、受け容れられる。ドイツでは、ベートーヴェンの理念を受け継ぐものとしての交響曲作曲家がフランスにいる、ということに意を強くした聴き手も多かったことだろう。
 普通、作曲の委嘱がないにもかかわらず、作曲家が自発的に曲を作り始めるというのは、よほどの内的必然性がないと実現しない。すでに1830年代には英雄視されていたナポレオン・ボナパルトを讃えるための作品の構想を練っていたベルリオーズは、1846年の自作品目録に「未発表作品」として、この《テ・デウム》の名を記している(どこまで完成していたかは不明)。総譜は1849年8月に完成したが、上演に多大な費用がかかる大規模作品がおいそれと演奏されるはずもなかった。1830~48年の七月王政時代に政府と懇(ねんご)ろであったと見なされていたベルリオーズは、その後に成立した第二帝政およびナポレオン3世から疎んじられていたことも考え合わせるべきだろう。それでも、初演はその5年後となる1855年4月、パリで行われた万国博覧会の祝賀行事の一環としてパリのサン・トゥシュタッシュ教会でようやく実現した。
 ナポレオン・ボナパルトの偉大さを讃える楽曲形式には、おなじく神の偉大さ、壮大さを讃える賛歌「テ・デウム」が選ばれた。純粋な宗教的敬虔さを表明するというよりは、作品の壮大さに名を借りた、巨大編成を駆使するための隠れ蓑であった。〈テ・デウム(神なる御身を)〉冒頭から、管弦楽・合唱と、それとは反対の端に置かれるよう指定されたオルガンの壮麗な響きがお互いに呼びかけあい、壮大なステレオ効果を生み出す。二重フーガの展開も、祝祭性を高めようとする意図の現れだろう。三つの部分から成る〈ティビ・オムネス(すべては御身に向かい)〉では、その最初と最後にサンクトゥスの大合唱が置かれ、壮麗な雰囲気をいやがおうにも高める。〈ディナーレ(為したまえ)〉では静謐な音楽の中にも複雑な転調が彩りを添え、〈クリステ、レックス・グローリエ(栄光の王キリストよ)〉では栄光を讃えつつも、中間部では合唱の第1テノール(ソロ)に導かれ、やわらかに緊迫感を醸し出す。この独唱が、続く〈テ・エルゴ・クエスムス(それ故に願い奉る)〉で、テノール独唱が歌うト短調による「救済」への伏線となっている。
 だが、これらの先行楽章すべては、終曲〈ユーデクス・クレデリス(我信ず、裁き主に)〉への前奏にしか過ぎないとすら言えそうである。冒頭にオルガンで演奏される主題は、その後の合唱でフーガ風に扱われ、「最後の審判」の激しさを描きつつ、変ロ長調の絢爛豪華なクライマックスへとたどり着く。単なる誇大妄想とは一線を画しつつ、緻密な構成を駆使した巨大な編成の楽曲を構築してみせるときこそ、ベルリオーズの最上の霊感が迸(ほとばし)る瞬間であった。
 なお、今回の演奏においては、〈ティビ・オムネス〉と〈ディナーレ〉の間に差し挟まれる〈前奏曲〉、および終曲として付け足された〈行進曲〉は、軍事祝祭の時のみに演奏される、とするベルリオーズの意志を尊重し、演奏されない。

作曲年代:1830年代に構想、1848年10月~49年8月作曲、1852・55年に改訂
初演:1855年4月30日 パリ、サン・トゥシュタッシュ教会、エクトル・ベルリオーズ指揮

(広瀬大介)