NHK交響楽団
NHK Symphony Orchestra, Tokyo

 

音の記憶

 

文楽の音、チェロの音

桐竹 勘十郎

(文楽人形遣い)

 

 それは、「心地よい音」とは言い難いのだが、私の記憶の奥底に残る最初の音だったように思う。

 私が生まれ育ったのは、大阪・住吉大社に近い粉浜(こはま)。その頃は人形遣いの父と隣り合わせて、文楽三味線の二代目野澤勝太郎さんが住んでおられた。決まって朝早くから聞こえてくるのは、2階でお弟子さんが稽古する「三ッ撥(みつばち)」の音で、これが延々と続いていた。その音色というのが、隣近所を憚(はばか)って三味線の糸と胴の間に手拭を挟んで弾くため、実にスッキリしない。響きもしなければ「テテテ、テテテ」と何とも気持ちが悪く、日曜日の朝など寝坊をしたいところなのに、この音で目覚めると、「朝からうるさいなぁ……」と、子供心に妬ましく思ったものである。長丁場の浄瑠璃に「三ッ撥」の稽古が大切だということを理解したのは、文楽に入ってからのことである。

 中学2年生から文楽を手伝うようになった。そうなると楽屋で過ごす時間が多くなり、当然のことながら義太夫と太棹三味線がいつも私の耳に流れていた。そうして、知らず知らずのうちに太棹三味線の音色が好きになっていた。

 もうひとつ好きになったのが「ツケ」。樫の木で作った柝(き・拍子木)をケヤキの板に打ち付ける効果音で、文楽では歌舞伎のように舞台に出ないので「カゲ」ともいう。人形遣いの吉田兵次(ひょうじ)さんは、とても声が良くて口上の名人だった。年をとって人形遣いを引退されてからも、90歳近くまで口上と「ツケ」を続けておられた。「ツケ」は人形の振りがわからないとできないので、若い者にはなかなか難しい。私たちも持ち回りでやったが、いい音を出すために膝を打ったり座布団を叩いたりして稽古したものだ。

 いったん劇場に入るといろいろな音が溢れている。記憶の奥底に残っているのは、やはり文楽の音なのである。

 

 

 そんな私がチェロの音色に魅せられるようなったのは、太棹三味線の音と似ている……と感じた頃からだと思う。文楽人形と他のジャンルの音楽がコラボレーションする機会が増え、それまで聴くことのなかったクラシック音楽にも自然と心惹かれるようになった。

 J.S.バッハ《無伴奏チェロ組曲第5番》にのせて女方の人形一体を遣うことを試みたのは、まだ簑太郎時代のことである。「水の都」大阪での公演だったので、人形に「水の精」を演じさせ、山や里に降る雨がやがて海に流れ、再び天空に上がる物語を描いた。振りは地唄舞の先生に付けていただき、衣裳も自分で手縫いした。何色かのブルーのオーガンジーの布を使って水のイメージを作り、チェロは肩衣に袴を着けた林峰男氏(この舞台のために来日してくださった)に上手の床(義太夫と三味線の位置)で演奏していただいた。「バッハをまったく理解していない」と音楽評論家の先生に新聞紙上で酷評されたが、私自身はバッハを理解して曲を選んだわけではなく、チェロの音色とこの曲が好きだっただけなので、さして落胆もしなかった。

 黛敏郎先生が独奏チェロのために作った《BUNRAKU》という曲がある。冒頭はピチカートで、音色も旋律も、まさに太棹三味線。そこから大夫の語りが擦弦で表現されていて、チェロで奏でる義太夫そのものという印象の曲である。この曲を聞いた時、『関寺小町』(せきでらこまち)に合うと思った。『関寺小町』は能をもとに作られた文楽の舞踊で、老女となった小野小町が、恋多き若き日を回想し、やがて老いを悟って庵に帰るという物語である。現行の文楽『関寺小町』からいくつかの場面をピックアップして上演したのだが、まるでこの作品のために作ったのではないかと思えるくらい物語と曲がよくあっていた。この舞台を見てくださった方はきっと、太棹三味線とチェロの音色が酷似していることに驚かれたことと思う。演じていた私自身にとっても、印象深い経験だった。 

 

 いつもいつも文楽の音の中に居ると、癒されるために他の音楽を聴くことがある。長い公演旅行には必ず、好きな曲のディスクを数枚携えて旅に出る。しかし、私の原点はやはり太棹三味線と義太夫、そして文楽を作っているさまざまな音であることは間違いない。とりわけ太棹三味線と義太夫は、私にとって「空気」そのもののように思える。

 

プロフィール

桐竹 勘十郎

桐竹 勘十郎(きりたけ・かんじゅうろう)

1953年大阪府生まれ。文楽人形遣い。父は二世桐竹勘十郎(人間国宝)。1968年吉田簑助に入門、吉田簑太郎を名乗る。2003年父の名跡を襲名。父の立ち役、師匠の女方を目標に修業中。2008年紫綬褒章受章、2009年日本芸術院賞受賞。

 

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