NHK交響楽団
NHK Symphony Orchestra, Tokyo

 

音の記憶

 

パリ暮らし、音のレパートリー

中村 江里子

(フリーアナウンサー)

 

 パリでの生活も18年となりました。

 住み始めた当初は、「もうパリに住んで10年です」「20年になります」という先輩の方々にお会いすると、「すごいなあ」と感動していましたが、今や私の方が驚かれる立場になりました。

 でも、まだまだです。まだまだ、戸惑うことも多く、突然鳴る電話の音に体が一瞬固まってしまったりします。相手が誰だかわからない電話にフランス語で出るのはためらいがまだあるのです。

 今日はもうこれ以上、フランス語を聞きたくないと耳が営業終了の看板を下ろしてしまうこともあります。こんなに毎日、フランス語を話しているのに……。

 18年前、フランスに住み始めて、A(アー)B(ベー)C(セー)と、アルファベットの発音から勉強を始めました。それまで自分の生活の中になかった音を耳が受け入れるのに、かなりの時間がかかりました。毎日、毎日、聞いて、発音し、書いて、調べての繰り返し。

 

 

 音は生活の中に普通にあり、そのひとつひとつを意識することはありません。けれども、パリでの生活がスタートしてからは、当たり前にある音ひとつひとつに集中して耳を傾け、音の微妙な違いを理解しなければならなくなりました。

 日本ではレストランやお店でBGMが流れていることが多いですよね。むしろ普通の光景のような気がします。でも、パリではそういった音楽がありません。そこに集う人たちが音を作り出し、空間を演出しています。ガチャガチャと音を立てるカップたち、横を通る女性のヒールの音、ガーーッと大音量を立てるカフェマシン、カウンターの男性たちの低い声……。質の異なる音が、なぜか調和し、不思議と居心地の良さをもたらしています。

 パリのメトロはといえば、よく揺れて、かなりの騒音で走ります。車内での会話はいつもより声を大きくしなければ隣にいても聞こえません。だから……まあ、賑やか。ひっきりなしの「スリにご注意ください!!」という車内アナウンスの声に負けじと、横に座った女性たちが大声で話しだしました。そのお隣では若い男性が、スマートフォンで誰かとおしゃべりに夢中。

 

 

 一方、帰国して東京で電車に乗ると、その静かさに驚かされます。ラッシュの時間帯よりも日中のすいている時間帯に乗車することのほうが多いとはいえ、音の数が少なく感じるのです。

 こうして東京とパリを行き来していると、時々、これらの音の感じ方の違いはなんだろう?と考えます。きっと同じ音を聞いても、パリと東京では違ったふうに聞こえるのではないだろうか、と。

 パリの冬のキーンと張った冷たい空気、木々は葉を落とし、足元にはオレンジ色のかさかさに乾いた落ち葉の山。厚手のコートに身を包み、ブーツで石畳をしっかり歩く。

 そして、パリらしいと感じる冬の音といえば、暖炉の薪のはじける音。寒くなると、居間の暖炉に火を入れます。最近、良い薪を手に入れることができました。ここ数年、夫は上の階の住人と情報交換しながら「良い薪」を探していたのです。薪探しは男性陣の仕事ということになっています。昨年の秋の日、大きなトラック一杯の薪が運ばれてきました。

 「良い薪」とはどんなものかというと、薪のはじける音がまるで違うのです!パチッと一段と高い音をだして、薪がはじける。フワッと大きな炎があがる。そして、暖炉の火は本当に暖かいのです。

 

 

 パリの冬は長く、暗く、寒いけれども、たくさんの大好きな時間があります。

 そのひとつが、まさに暖炉に火を入れた瞬間。週末、居間の暖炉の前に家族が集まり、それぞれが好きな本を読む。その時にかける音楽はクラシックやジャズ、フランスの古い音楽。時には子どもたちが好きな若手アーティストの曲をかけて、ダンスタイム!

 こんな暖かな時間が持てるのなら、長くて暗い冬も捨てたものではないと思える瞬間です。

 ふと、子どもの時の記憶がよみがえります。東京の街中にある、戦前に建てられた実家。木造で、冬はしんしんと冷えました。家族みんなが家の真ん中にあった部屋に集まり、石油ストーブの前を私たち兄弟が陣取る。ストーブの音、家族の会話、みかんの香り。

 実家は明治時代から音楽に関わる仕事をしていることもあり、そんな時には、祖母や両親が会社から持って帰ってきた新しいレコードを聴いたりしながら過ごすわけです。

 パリの冬の薪のはじける音に、40年も前の温かい記憶がよみがえります。パリでも東京でも、生活で感じる音は確実に変わってきたけれども、それは新しい音との出会いであり、温かい記憶を増やす作業でもあります。きっとまだまだ知らない音、出会っていない音があるはず。

 新しい1年の始まり。もっともっと音のレパートリーを増やしていきたいと願うのです。

 

※写真はすべて筆者提供。

 

 

プロフィール

中村 江里子

中村 江里子(なかむら・えりこ)

フジテレビアナウンサーとして活躍後、フリーアナウンサーに。 2001年にフランス人のシャルル・エドワード・バルト氏と結婚し、生活の拠点をパリに移す。3児の母でもある。現在はパリと東京を行き来しながら、テレビや雑誌、講演会、イベントなどの仕事を続ける。著書も多数。

 

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