NHK交響楽団
NHK Symphony Orchestra, Tokyo

 

音の記憶

 

台所の音色

細川 亜衣

(料理家)

 

 鳥たちが絶え間なくさえずり、その鳴き声は大きな木々の間を抜けて空に響いてゆく。

 いまの家に越してきた時、まず耳に飛び込んできたのは、鳥たちの歌だった。と同時に、木々が風に揺れる、微(かす)かな音色が遠くの方で聞こえた。

 あれ以来、私は料理をする時に音楽を聞くことがほとんどなくなった。でも、東京で暮らしていた頃は、料理をしながら自分の胃の腑(ふ)に落とし込むように音楽を聞くことも多かった。ピアノ、チェロ、ヴィオラ・ダ・ガンバ…。音に酔っていると、不思議と手元に集中できた。

 それなのに、なぜ、私は聞くことをやめてしまったのだろう。

 料理についての文章を書く時、私はしばしば“奏でる”という言葉を使うことがある。味や、香り、そして色の重なり。それらは全く別のものであるのにも関わらず、ひとつの旋律となって鍋や皿の中から流れ出す。

 

 たとえば、“冬の白い旋律”を想像してみるとする。百合根(ゆりね)のスープを作ろう。

 百合根はおがくずから出して、一枚一枚の花弁を根っこからていねいにはずしてゆく。しばらく水にひたし、さらにひとひらずつ、親指の腹でぬぐって泥を丁寧に落とす。真っ白に透き通る肌になったところで鍋に入れ、バターでじっくりと炒めると、辺り一面に仄(ほの)かに甘い香りが漂うだろう。百合根がくずれるほどに柔らかくなったら、牛乳を注いで煮て、さらにミキサーでなめらかにする。熱々のスープを、時代物の白い皿に盛り、柚子(ゆず)を軽く搾(しぼ)り、ぽつり、ぽつりとたらす。その音が私の耳に響くことはないが、スープの表面に落ちてゆく様には、独特のリズムがある。そして、いよいよこの一皿は出来上がりを迎え、私の心の中はフィナーレに向かう鼓動で揺れている。

 おいしくできただろうか、それとも?それは食卓で観客が決めることだ。最後に、白い水面に純白の結晶塩を散らし、ようやく緊張から解き放たれる。

 

 

 こんな風に料理を夢想する時間は悪くない。私には音楽の才はないが、料理でさまざまな旋律を奏でることはできる。目や鼻、そして舌で感じるものが、気がつけば一つの音楽となって体の中を駆け巡るのだ。

 

 一方で、台所で料理をしている時に、はっとするような音に出会うこともある。意識をすれば、水で洗う音、鍋の中が煮える音、台所にはたくさんの音がある。しかし、ふと手を止めてしまうほどの音を耳にすることはそう多くはない。

 

 音色と呼びたくなるような音。そんな音に出会った日のことを書いてみたいと思う。とある秋の一日だった。庭の柘榴(ざくろ)の実をもいで、シロップを作ることにした。

 聖夜の食卓に、柘榴色の食前酒を出したらどんなに素敵だろうと想像するだけで心が弾む。一粒一粒、実をばらしてゆき、傷んだところや、薄皮を取り除くために水を通す。その時、すかさず私が手に取ったのが、スリランカの旅で求めた古い真鍮(しんちゅう)の鉢だった。

 

 

 豊穣(ほうじょう)の象徴でもある柘榴は、鈍く光る金色の鉢が似合う。スリランカのとあるホテルで使われていたのを見て一目惚(ぼ)れし、薄暗い古物店の一角でようやく探し当てたものだった。いにしえの職人がひとつひとつ作ったことがうかがえる独特の歪(ゆが)みと、誰かの手元で使われ続けた証しである無数の傷があちこちに見えて、私はいてもたってもいられなくなる。美しい。ただただ美しい。彼の地では、かつてはお供えの花を盛ることもあれば、食べ物を盛ることもあったと、髭面(ひげづら)の店主は教えてくれた。たしかにこの鉢には、花びらも、果物も、そして穀物も優雅に受け止めてくれるおおらかさがある。そして、縁を指先で軽く叩くと、優しい音が静かに響き渡った。

 

 春が過ぎ、夏が来て、青い豆やトマトなど、私は様々な食材をここに盛った。出来上がった料理そのものよりも、これから料理されるのを待ちわびている食材を盛ると、食材の色や形が金色の背景に映えるのである。

 

 

 そして秋を迎え、柘榴をむきながら自然とこの鉢に手が伸びる。固い表皮を割り、小さく透き通った紅色の実をほぐそうと懸命になったその時、言葉で言い表すことができない、うっとりするような音が響いた。それはほんの一瞬の出来事だったが、私の頭の中ではスリランカの旅で感じた光や闇、青葉や土、花々の色がいっせいに駆け巡って、咽(むせ)びそうになった。

 

 心で奏でる音も、音から生まれる心の動きも、どちらも同じように愛おしい。台所の音色は、上手に楽器を奏でることも、歌を歌うこともできない私にとって、かけがえのない音楽となっている。

 

※写真はすべて筆者提供

 

プロフィール

細川 亜衣

細川 亜衣(ほそかわ・あい)

料理家。住まいのある熊本・泰勝寺にて、料理教室や食を通した様々な企画を運営するかたわら、国内外で料理会を行う。著書に『イタリア料理の本』『食記帖』『スープ』などがある。2016年12月に新刊『野菜』を刊行。

 

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