NHK交響楽団
NHK Symphony Orchestra, Tokyo

 

音の記憶

 

酒蔵の「聴こえない音」

かの 香織

(醸造元12代目)

 

 氷点下10度。見上げる冬空に貫く雁(がん)の群れ。粉雪をギシギシと踏みしめ北風に巻かれながら酒蔵に向かう。白い呼吸。今日も生かされているのだとまた気づかされる朝。吐く息は明け方の透明な月に合わさり、大寒の天体と一体化していく。木戸を開ける音は漆喰(しっくい)壁の土蔵に響き渡り、ガラゴロと鳴る蔵戸の音の残響が舞い降りきった次に、静けさ、という音がやってくる。

 

酒蔵の前で 聖木でもある杉玉と筆者 撮影:Junko Yoda

酒蔵の前で 聖木でもある杉玉と筆者 撮影:Junko Yoda

 

 数百年続いた酒蔵に必ずある「静けさの音」。

 聴こえない音の存在に気づいたのは日本酒造りに関わりだしてからだった。「静けさの音」、それは気、気配、空気、時間。研(と)ぎ澄ました五感で、または六感でとらえていく先にわかる測り知れない記憶に満ちる音。

 さあ、次の木戸を開けてみよう。今度は発酵中の原酒、醪(もろみ)のタンクが連なる命の世界だ。四方八方、天上から立体的に、まるでスコールのごとく降り注ぐ発泡音。シャンパーニュの世界では発泡が立ち昇る様子を「天使の囁(ささや)き」と呼ぶと聞いたことがあるが、私はこの命を何と形容したらよいだろうか。あふれんばかりの生命の音は私の中の琴線を鳴らし、命と調和し共鳴しあいすべてを浄(きよ)めていく。そこにはもう恐れや憎しみもなく、ただただ命に手を合わせて敬うしかない美しく絶対的な世界が果てしなく広がっている。

 

 1757年(宝暦7年)創業の、東北・宮城県の田舎町に構える小さな造り酒屋に私は生まれた。朝5時になると隣の土壁の酒蔵から蔵人(くらびと)の歌う仕込み唄が聴こえてくるのが日課で、その何とも言えない日本音階の単旋律が、小さな自分には幻想的すぎて、たやすく触れてはいけない結界(けっかい)の張られた聖域に感じていた。

 

醸造元はさまや酒造店の酒蔵の前で。数十年前の蔵人たちの記念写真

醸造元はさまや酒造店の酒蔵の前で。数十年前の蔵人たちの記念写真

 

 時代は高度成長時代、近代的な家電が急増する上昇気流の真っただ中だというのに、私の家は江戸時代さながらの竃(かまど)、五右衛門風呂、板きれと藁(わら)縄で作った手製の特大ブランコが風に揺れていた。

 毎冬、遠くから杜氏(とうじ)さんや職人さんが日本酒造りのためにやってきて、新米の収穫が終わる10月から造り留めの3月まで私の家の蔵に入り、1年の半分は寝食を共にする。当然インターネットや携帯電話などない時代だったので、耳にする音といえば、言葉数の少ない蔵人同士の会話、仕込み唄、大きなタンクで醪を攪拌(かくはん)する時の木道具のコーンと蔵に響く音、酒蔵に必ず祀(まつ)ってある神棚への柏手(かしわで)、そして一本締め、空を渡る冬鳥の声、そして静けさの音、この繰り返しとなる。

 

左:お米を洗い、浸漬(しんせき)してざるにあげる 右:浸漬した米を蒸す

左:お米を洗い、浸漬(しんせき)してざるにあげる 右:浸漬した米を蒸す

 

 麦飯、白菜の漬物、野菜の煮つけ、自家製の梅干し。味覚も聴覚もいたって質素で騒(ざわ)ついたところなど何ひとつない蔵人の毎日を、何とかして励まさなければとバッハのインヴェンションやモーツァルトの軽快なソナタを夕餉(ゆうげ)の隣で弾いたりしたが、喧(やかま)しかったかも知れないと今頃になって気づいて恥ずかしくなる。

 

 私が日本酒造りに実際に関わり始めた2003年。女人禁制の場所が多かった古い慣習はとっくに終焉(しゅうえん)を迎え、女性や若い人材を躊躇(ちゅうちょ)しない、日本酒の世界の変革期が既に来ていた。昔からご縁がある醸造蔵に見学に行き、実作業の経験が始まる。酒蔵独特の響き。欧州あたりの教会のリヴァーブとも異なる、土だとか木が返してくる温かみと包容力ある残響音。日本的でみずみずしい響きの質感にうれしくて心が震える毎日を送った。

 

酒造タンク内の醪を攪拌する筆者 撮影:Kiyotaka Shishido

酒造タンク内の醪を攪拌する筆者 撮影:Kiyotaka Shishido

 

 音に釘付けになっていると、杜氏さんが静かにタンクの中の発酵途中の原酒を蛇の目(じゃのめ)という酒器に注ぎ、味を利くよう差し出してくれた。こういう時の言葉遣(づか)いとして、造り手は味見するとは言わずに「味を利(き)く」と言うのは何とも面白い。「利く」と「聴く」。まさに日本酒の味わいは聴くということなのかもしれないと気づいて心が躍った。

「香織さん、醪の味はどう感じましたか?まだ発酵途中だけれど、既に酒としての生命力っていうのかな、重みがわかるでしょ?これはチェロやコントラバスでズーンと弓をひいたような味に近い。どうですか?」

 この表現の迫力に驚きのあまり、すぐさま返す言葉がなかった。

 そう、確かにそうだ。単に氷点下の酒蔵の空気が連れてきた幻なのか、それとも本当に、吟醸仕込み独特の低温発酵に潜む醪自体の重厚感が、チェロの低音にリンクする聴こえない有音を出していて、それを感覚的に感じ取っているのか、すぐには判断がつかなかったが、確かにその音は味覚を通じて耳で受け取っている気がした。

 

 蔵人は発酵が繰り返される神聖な酒造りの場では争いを避け、否定的な言葉が命ある酒に悪さをしないよう、心して美しい言葉を繰り返す。

 大丈夫。すまないね。助かったよ。それっ頑張れ。もう少しだ。いい酒になりますように。今日もありがとう。

 ここは「3.11」を運命に持つ意味深い場所でもある。だからこそ造り続け、きき続け、そして伝えていき、誰かのためにまた命を生むという使命が与えられていると信じている。

 静けさの音。

 忘れかけていた日本の精神は美しい静けさの音の中に生きている。

 酒蔵の中に、日本酒の中に。そしてその無限大の世界をひとくち飲んでは美味しいと私達は呟(つぶや)く。今日も静けさの音に耳を澄ます。

 未来の音が聴こえるような気がしている。

 

プロフィール

かの 香織

かの 香織(かの・かおり)

1757年創業、醸造元はさまや酒造店12代目当主として日本酒造りに関わる。ミュージシャンとしては1991年デビュー。国内外の音楽家との共演、録音など経験を重ね、現在まで18枚のアルバム作品を発表。CM音楽や映画主題歌、アニメ音楽など創作活動多数。NHK復興支援ソング《花は咲く》に参加。支援活動が実り2016年、復興地子ども支援、音楽セラピスト養成を基軸とした一般財団法人オーバー ザ レインボウ基金設立。

(撮影:MARI HORIUCHI)

 

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