NHK交響楽団
NHK Symphony Orchestra, Tokyo

 

音の記憶

 

もうちょっと素直になったら

松本 秀男

(スポーツ・ドクター)

 

 「あなたはすべてのことを疑うところから始める。もうちょっと素直になったら」

 大学で研究し論文を書く生活をしていると、理論的に説明できないものは素直に受け入れられなくなる。音楽は美しい。素直に美しいと思えばいいのに、この音が人間の感覚のどの部分を刺激するのだろうか、このフレーズを繰り返すことによってどのような効果を生んでいるのだろうか等々、いろいろと考えてしまう。これは人間として極めて不幸な状態かもしれない。

 さて、私は「スポーツ医科学」という領域の研究を行っている。かつてスポーツは経験主義が絶対であった。うさぎ跳びで脚力を鍛えよ、水を飲むとバテるので我慢せよ、できないことはひたすら同じ練習を繰り返してマスターせよ。我々はこうして鍛えられ、スポーツに励んできた。

 しかし、近年「スポーツ医科学」なるものが出現し、うさぎ跳びは膝(ひざ)関節の障害をきたす、水を飲まないと脱水症になる、繰り返し練習より効果的な方法がある、などが明らかになって来た。現在、このスポーツ医科学はさらに進歩し、けがや障害を予防しながら、記録やスポーツパフォーマンスの向上に大きな貢献をしている。

 たとえば、マラソン。42.195kmを走るために、まずこれに耐えられる心肺機能が必要である。心肺機能のトレーニングには呼気ガス分析装置が用いられる。これは運動負荷を徐々に上げながら、心電図と呼気中の二酸化炭素濃度を測定する装置で、個々の選手に最も有効な心肺機能トレーニングを決定するのに有効である。さらに42.195km走り続ける体幹と四肢の筋力や代謝能力も必要である。どのようなバランスの食事を何カロリー摂取し、どのような種類の筋力トレーニングを何時間どのように行うと長距離走に適した体ができるか等について詳細なデータを元に実施される。無名だった大学が突然駅伝で活躍するのは、これらの理論に基づいた食事療法の影響が大きい。さらに42.195km走り続ける精神力も必要であり、以前は「耐えろ」の一言であったものが、気持を維持するためのメンタルトレーニングも進歩した。そして、試合中はどのようなクッションの靴でどの歩幅で走り、どのように水分や電解質を採り、どのようにペース配分を行い、最後のスパートまで気持を維持するか、すべて「スポーツ医科学」の理論にのっとって進められる。現在、「スポーツ」の領域ではかなり「研究」の要素が取り入れられるようになった。

 さて、「音楽」の領域は……。もちろん音楽や音にも深い理論があり、音階と周波数の関係を知った時などは感動した。周波数比率は1オクターブが1:2、完全5度が2:3、完全4度が3:4等々。だから、和音がこんなにきれいに聞こえ、転調しても同じ比率で変化すれば、同じ曲になり得るのかと感激する。しかし、たとえば長調の曲はドで終わり、短調の曲はラで終わると安定感があるのは、やはり感覚の問題である。「安定感」という言葉そのものが感覚的である。

 

3次元動作解析装置でとらえたピアノ演奏の様子

3次元動作解析装置でとらえたピアノ演奏の様子

 

 我々はこの音楽にいかに研究の要素を取り入れようかと考える。「研究」と言えるためには、客観的な評価ができることが絶対条件である。「こちらの方が美しい」とか「こちらの方が重厚な音がでる」等は、あくまでの主観的評価である。

 たとえばピアノの「トリル」。「いかにきれいにトリルを弾くか」は主観的であるが、「いかに均一なトリルを弾くか」は客観的である。従って、「研究」は、出てきた音をオシロスコープ等で分析してトリルの1つ1つの音の長さや強さを測り、均一性を評価する。そして、指の位置をどこに置き、どの高さに指を上げれば、最も均一に弾けるかを調べ、どのようなトレーニングをすればより均一に弾けるかを研究する。

 ところがである。ここで最も問題となるのが「均一であることは、必ずしも美しいこととは一致しない。」のである。

 一昨年、オーボエを指導している音楽大学の教授から「上手な子と下手な子では身体の動きが違う。これを客観的に評価できないか」という依頼を受けた。まず、「上手」と「下手」が既に主観的である。次に「動き」をどのように評価するかも難しい。「重心動揺」を評価するのか、「体幹の運動量」を測定するのか首の「振れ幅」を測定するのか……。とりあえず、「動き」は反射マーカーを付けた3次元動作解析装置を用い、ある練習曲をトップレベルのプロから学生まで様々なレベルの奏者に演奏してもらった。そして、「上手」と「下手」は複数の専門家に録音を聞いてもらい、点数を付けて評価してもらった。

 結果は……、残念なことに明らかな動作の違いを特定できなかった。これはスポーツでも同じで、投球フォームを分析したことがあるが、初心者と大学の野球部レベルでは、肩関節の角度、肘の高さなどに明らかな違いが出るが、大学の野球部レベルとプロ選手では、ここが違うという結論が出せなかった。たぶんその道のプロはそれぞれが自分の最も効果的なフォームを自分で見つけているのだろう。「こう投げればプロになれる」など分かるはずもない。

 音楽に理論はそぐわない。たくさん美しい音楽を聞いて、美しいと思う感覚を養うことが最も重要であるとの意見もある。完全に均一に弾かれたトリルよりも均一でないトリルの方が美しい。それはそれで良いとして、私自身は、なぜ、均一でない方が美しく聞こえるかを追求する部分に魅力を感じる。トリルのどの部分で何%速く、またはどの程度強く弾くと、きれいに聞こえるのか……。

 夜空の星を眺めて美しいと思うこともロマンであるが、あの星とあの星の距離はどのくらいだろう、なぜこちらの星の方が明るいのだろうと、思いをめぐらすことに最大のロマンを見いだすのです。やはり人間として少し壊れてしまっているのでしょうか?

 

プロフィール

松本 秀男

松本 秀男(まつもと・ひでお)

医学博士。工学博士。専門はスポーツ医学、膝関節外科学、生体工学。読売巨人軍 、ヤクルトスワローズの顧問ドクターを務める。慶應義塾大学スポーツ医学総合センター教授。

 

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