NHK交響楽団
NHK Symphony Orchestra, Tokyo

 

音の記憶

 

音楽とB級グルメ

船曳 建夫

(文化人類学者)

 

 好きだと、さほどの演奏でなくても聞いていられる音楽がある。

 私には、文楽の義太夫がそうだ。義太夫だと若手の演奏でも、「うーん、ここで外(はず)すか」、「もう一伸びほしいな」、「声からすると、語る演目を変えた方が」などと、すっかり評論家気取りで楽しんでいる。

 それがクラシック、特に、シンフォニーとなるとそうはいかない。

 東欧の町の同じホールで、艶やかなシンフォニーに酔った次の日、座っているだけでもつらい演奏に耐えたことがある。終わったとき、周りの反応は両日とも大拍手であった。パフォーマンスの巧拙はあったのだろうが、問題はそれ以上に、私なのである。交響曲のような多数の要素があって、それが構造的に組み上がっている音楽だと、私はついて行く力、楽しむ感性が十分に発達していない。だから、かなり高い水準の演奏だと楽しめるのだが、ある閾値(いきち)に達していないと、わが鈍い内側がまったく感応しないのである。

 もちろん、これは謙遜(けんそん)ではなく、長い間、よくよく自分を吟味して出た結論である。他のジャンル、たとえば料理と比べると分かりやすい。

 私は内心、舌は十分に発達していると思っている(以下、そう仮定して)。

 多くの要素が含まれているフランス料理とかが、ありようそのままに分かる。また、かつて英国に留学していたとき、2階に住むインド人の教授家族にディナーに招かれたことがある。奥さんの準備は前日から始まった。種々の香料を擂(す)っている複雑な匂いが、階下の私のところにまで届く。当日のディナーは驚くべきものだった。口に含むと、頬(ほお)の内側が膨張したように、さまざまな味と香りが広がる。ワーグナーのオペラで、オーケストラピットから、千本の矢のごとく音が吹き上がることがあるが、あれが口の中で起きた。それが分かったのである。

 

 一方、日本料理は単純といえよう。フランス料理やインド料理の、複数の要素から作られたソースや煮汁とは違い、始めから最後までしょうゆ一筋を守って食べたりする。基本のだしも昆布と鰹(かつお)節だけで取る(昆布や鰹節にも多種あろうことは想像されるが)。日本料理の特徴として、「素材を生かす」とよくいわれる。それは、なるべく無駄を省き、味を殺さないようにする、要素の純化といってよいだろう。

 音楽に戻れば、私の好きな浄瑠璃も、三味線1本、語り手1人で、弾き通し、語り通す。要素の純化はきわまっている。それに対し、先に挙げたワーグナーのオペラなどは、おそろしい数の音符による音の流れが劇場の中に渦を巻く。そういえば誰かが、真に西洋のクラシック音楽に匹敵するのはインド音楽だけだ、といっていたのを思い出す。

 

河東節の人間国宝、山彦節子さんを訪ねての1枚

河東節の人間国宝、山彦節子さんを訪ねての1枚

 

 さて、ここからやや危険な領域に入る。訝(いぶか)しみ、もしかすると怒りさえ買うことになるかもしれない。

 私は、日本料理は基本的にすべて「B級グルメ」だと思っている。焼きそば、餃子と限らず、鮨でも天ぷらでも、その店では、次々と、ある単一な調理法で作られたものだけを食べるのである。さまざまな調理法が用いられる懐石料理があるではないか、といわれれば、あれは、すぐれたB級グルメの一つ一つを並列させているのであって、複数の要素による味の構造が立ち上がるのではない、と答えよう。しかし、ここで「B級」という比喩(ひゆ)を「劣っている」という意味で使っているのではないことを理解していただきたい。邦楽も日本料理も、日本文化の基層に根ざし、要素をそぎ落とし、対象の髄を取り出して磨き上げる傾向を持つことを、印象深く伝えようと、使っているだけである。

 

 繰り返してまとめれば、西洋・インドと日本を比べると、その前者の音楽と料理は、多くの要素を入れ込んで、それでも均整の取れた、あるいは均衡を崩しながらもぎりぎりでとどまりつつ、大きく複雑な三次元の構造を立ち上げようとする迫力を持つ。後者では、要素をそぎ落とし、一音一音、素材一つ一つを選び抜き、鍛え抜こうとする鋭い営みがある。いずれもそれらが「分かる」ためにはそうした音や味が幼いときからからだに染みついていること、さらにそれを意識化させる訓練が必要である。私は、三味線の音は分かるが、西洋古典音楽は、自信をもって分かる、と言いがたいのである。

 しかし、音を聞いたとき、食物を味わったときの、体の内側に起きるセンセーションは、「分かる」を、必ずしも要しない。評論家の「分かる」は音楽や料理を言葉で指さし腑(ふ)分けすることで異次元の鑑賞に導いてくれるが、アマチュアとしては、音や味が極上のものであれば、「分かる」ことなしでも、言葉の手前、体の内側で、十分に感激することができる。

 ただ、それでも私は、要素が複雑なものと純化されたものでは、感激それ自体に違いを感じる。私はよいシンフォニーを聴いたときは、そこに人類の高みを感じる。すぐれた三味線の一音を聞いたときは、一人の人生の深みを感じる。聴くこちらが、それぞれ楽しいことに、変わりはないのだが。

 

プロフィール

船曳 建夫

船曳 建夫(ふなびき・たけお)

1948年、東京生まれ。文化人類学者。東京大学大学院総合文化研究科名誉教授。メラネシア(バヌアツ、パプアニューギニア)、ポリネシア(ハワイ、タヒチ)、日本(山形県庄内平野)、東アジア(中国、韓国) でフィールドワークを行う。専門の関心は、人間の自然性と文化性の相互干渉、儀礼と演劇の表現と仕組み、近代化の過程で起こる文化と社会の変化。

 

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