NHK交響楽団
NHK Symphony Orchestra, Tokyo

 

死に逝く人を癒す音楽の力

死を超えて未来に向かって心を開く

アルフォンス・デーケン

 

人生の宿題

 私には音楽に救われ、人生の転機となった体験があります。

 ドイツのミュンヘンで病院のボランティアとして働いていたときのことです。医師からある患者さんの臨終に付き添うように頼まれたのでした。その方は東欧からの亡命者で、身寄りがなかったのです。私は、初対面のその人のベッドの側に座り、何を話そうかと考えました。天気や政治、そしてスポーツといった日常的なことは、もうその患者さんにとっては何の意味も持ちません。死に逝くこの方に何を話すべきか、話の糸口を見つけられず、私は悩みました。初めて会った、見知らぬ人のために、そして死を目前にした人に何か価値のある話ができるでしょうか。どうすれば、この方と心を通わすことができるのか、何もしてあげられないことを思い知り、自分の非力さにただ打ちのめされるばかりでした。

 いろいろと考えた末に音楽をかけることを思いつきました。モーツァルトの《レクイエム》を小さく彼の耳元でかけ、静かに祈りました。この方は音楽の調べに聴き入り、とても安らかな顔をしていらっしゃいました。本来ならば、この方の好きな曲、思い出の曲をかけてあげられればよかったのかもしれません。若かった私にはそうした気遣いをする心の余裕もなく、音楽をかけることで精いっぱいでした。私の人生でもっとも長い3時間でした。この体験により、私は「死生学」をライフワークにしようと決意したのです。人生の宿題をこの患者さんから与えられたと言えましょう。

 

音楽療法の役割

 多くの方にとって音楽は、幸せな体験や幸福な日々を思い起こさせます。例えば、初めて踊った曲、結婚式のときの曲など、誰にとっても思い出と結びついた曲があるのではないかと思います。

 音楽は本質的に時間と空間を超越していますから、懐かしいメロディーを聞けば、たちまちに心は昔の日々をたどり、明るい灯り、生きる喜びを取り戻させてくれます。また永遠性への希望の象徴ともなり得ます。死を超えた未来に向かって心を開く支えになるのではないでしょうか。

 私はこれまで世界各地の200以上のホスピスを視察してきました。ホスピスでは最期まで人間らしく生きるために、生命や生活の質を高めるケアとして、音楽療法が盛んに実施されています。病気がもはや治らないとしても、文化的な環境が重視されているのです。

 そして音楽療法は大きな役割を果たしていると言えます。つまり好きな音楽を聴くことで、患者さんの免疫力が高まり、患者さんの注意力を集中させて、しばらくの間、苦痛や不安を忘れさせ、疼痛緩和の効果もあります。

 また音楽は、死に直面する緊張やストレスを和らげて、ゆったりとした雰囲気を醸し出し、精神的な苛立ちを鎮めることにも役立っています。音楽の持つハーモニーが精神的な動揺を鎮め、内的な調和を回復する助けとなっているのです。

 それから音楽の描き出すイメージは、なかなか心情を吐露しようとしない患者さんとの対話のきっかけとなり、心の交流の輪を広げ、思いがけない出会いや深みのあるコミュニケーションが生まれることもあります。

 

悲しみに寄り添う音楽

 あるアメリカのホスピスでお聞きした話をしましょう。

 39歳の母親は、再発した乳がんのために、3人の子どもを遺して、間もなく死を迎えようとしていました。子どもたちはまだ幼くて、母親の記憶が鮮明に残るとは思われない状況でした。そこで母親は、ベッドの上で自分の一生を振り返って、さまざまな思い出と心に残る音楽の数々をテープに録音したのです。自分の生い立ちから祖父母、父母、兄弟姉妹、故郷での日々や学生生活、青春の思い出や子どもたちの父親である夫との出会い、幸福な結婚生活とそれぞれの子どもの誕生の喜びと成長の跡を、その時期にまつわる曲と共に一人に3本ずつ、9本のテープに綴って遺しました。限られた時間内にようやくこの作業を終えた彼女は、実に安らかな微笑みを浮かべて逝ったそうです。このテープは、遺された家族の悲しみや喪失感を癒し、立ち直りに導く上でも大いに役立ったことでしょう。

 

死に逝く人々の身近に音楽を

 音楽療法士は、患者さんにまだ力があり、元気なときは一緒に小さな楽器を奏で、歌うこともできますが、終末期にある患者さんのベッドサイドでは、患者さんの呼吸に合わせ、静かにゆっくり、患者さんの好きな音楽を低く奏でるなど、最期まで寄り添うことができます。ですから、とても奥の深い療法だと思います。

 旧約聖書に、「…ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルの心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた」(サムエル記上16章23節)とあります。このことからも、古来、音楽が精神的な症状を癒すことのできる、重要な治療手段とされてきたことがわかります。

 日本人は音楽に対してとても豊かな感性を持っていると思います。誰の人生においても音楽はかけがえのないものであります。ですから、音楽による癒しが死に逝く人々の身近にいつもあることを心から願っています。

 

(Alfons Deeken/上智大学名誉教授、「東京・生と死を考える会」名誉会長)

 

オススメ・コンサート オススメ・コンサート

2013年4月19日(金) 7:00pm  2013年4月20日(土) 3:00pm
第1752回 定期公演 Cプログラム NHKホール
~ヴェルディ生誕200年~
ヴェルディ/レクイエム
指揮:セミョーン・ビシュコフ
ソプラノ:マリナ・ポプラフスカヤ
メゾ・ソプラノ:アニタ・ラチヴェリシュヴィリ
テノール:ディミトリ・ピタス
バス:ユーリ・ヴォロビエフ
合唱:新国立劇場合唱団

 

 

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