NHK交響楽団
NHK Symphony Orchestra, Tokyo

 

皇帝ナポレオンの別の顔

── 粗野な英雄が愛した芸術的趣味

川島ルミ子

皇帝ナポレオンの別の顔

 

極端にドラマチックな人生

 ナポレオンの人生は、終焉(しゅうえん)の地となった大西洋のセント・ヘレナ島で自ら述べたように、小説そのものだった。しかも、劇的なできごとに彩られた稀(まれ)に見る一大ロマンだ。そのために、時代も国境も越えて人々の心を騒がせ、魅了し続けているのである。

 ナポレオンが地中海のコルシカ島で生まれたのは、ジェノヴァ共和国の植民地からフランス領になってわずか3か月後のことだった。この島がフランス領にならなかったら、ナポレオンは父の希望で本土に渡り、フランス国費で軍事教育を受けることはなかったし、革命で混乱する国で頭角を現し、軍の先頭に立って諸外国と戦闘を繰り返し、勝利をもたらし、英雄とあがめられ、フランス皇帝の地位に就くこともなかった。

 

ジャック・ルイ・ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』(1807年、フランス、ルーヴル美術館所蔵)

ジャック・ルイ・ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』(1807年、フランス、ルーヴル美術館所蔵)

 

 名もない小貴族の家に生まれた負けず嫌いのナポレオンは、子どものころから憧れを持っていた。それは、カエサルやアレクサンドロス大王のような偉大な人物になることだった。父を早くに亡くし長年貧乏生活を強いられていたが、歴史に残るような英雄になるという野望を片時も失うことはなかった。熱い夢を胸に秘めながら並外れた努力を重ね、ついにはヨーロッパ諸国を震え上がらせるほどの権力者になった。なんの後ろ盾もない無名の青年から、自分の力でフランス最高峰の地位を獲得するに至るのである。

 けれどもそれから約10年後には戦いに敗れ、すべてを失い、地の果てにある苛酷な気候の孤島に流刑され、冷遇に耐えながら51歳の生涯を閉じたのだった。輝かしい栄光と悲劇的な最期の両極端を生きた彼の無比の人生は、限りなくドラマチックで記憶に深く刻まれる。

 

意外にもロマンチックな言葉で

 革命後乱れに乱れていた国に秩序をもたらし、フランス銀行設立、諸外国の近代民法の基礎となるナポレオン法典制定、レジオン・ドヌール勲章創設など、矢継ぎ早に国の統治者の力量を示す一方、読書好きの文学青年だった時代の繊細なエスプリを失うことはなかった。他の権力者に見られない、その思いがけないロマンチックな一面には、生身の人間の温かさが感じられ、心が揺さぶられる。

 

ジャック・ルイ・ダヴィッド『書斎のナポレオン』(1812年、ワシントン、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート所蔵)

ジャック・ルイ・ダヴィッド『書斎のナポレオン』(1812年、ワシントン、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート所蔵)

 

 幼いころから英雄伝を読み、青年に達してからは哲学者ルソーの著作を片っ端から読んでいたナポレオンだが、遠征にまで持参するほど愛読していたのはゲーテの『若きウェルテルの悩み』である。ひとりの女性に全身全霊を捧げる青年の恋の苦悩を書いたこの小説は、ゲーテの実際の体験が元になっている。何度も繰り返し読んでいたナポレオンは、 同時代を生きていた作家に会う機会に恵まれた際にいたく感激し、本人に直接愛読者だと告げている。

 書物から多くを学んだナポレオンが最初の妻ジョゼフィーヌに書き送っていた数多くの手紙は、女性の感性に訴えずにはおかない情熱や思いやりに満ちていた。また、戦地に向かう部下たちには、この指揮官のためならと士気を鼓舞させる感動的な言葉を発していた。それだからこそ、イタリア方面軍司令官に任命されたナポレオンが27歳の若さであったにもかかわらず、年長の兵士たちも含めて彼の元に強く結束し、激戦を繰り広げ、フランスに大勝利をもたらせたのである。

 

 ナポレオンはまた無類の家族思いでもあった。父を16歳で亡くしどん底の生活を強いられていた彼は、食べ物を極力倹約し、わずかな収入から弟の学費をまかない、母への仕送りも欠かさなかった。ジョゼフィーヌに出会ったとき、ガリガリに痩せ髪の毛も乱れ風采が上がらなかったのは、貧乏で身なりに気を配る余裕も関心もなかったからだった。

 

妻の審美眼と芸術的趣味

 エキゾチックな顔のジョゼフィーヌは楽天的な性格で、優れた審美眼を持つ女性だった。自分磨きに余念がない彼女は欠点を隠すメイキャップも、囁(ささや)くような魅惑的な話し方も、浮いたような歩き方もすべて自分で考え出した。彼女が好んで身に付けていた古代ギリシャの女人像柱を彷彿(ほうふつ)させるような、体に絡みつく薄地のハイウエストのドレスは、第一帝政時代を象徴する服装で、同じ装いの貴婦人たちが行き交うナポレオンの宮廷は限りなくエレガントだった。

 

ピエール・ポール・プリュードン『別邸マルメゾンの庭園のジョゼフィーヌ』(1805年、フランス、ルーヴル美術館所蔵)

ピエール・ポール・プリュードン『別邸マルメゾンの庭園のジョゼフィーヌ』(1805年、フランス、ルーヴル美術館所蔵)

 

 パリ中心のチュイルリー宮殿や近郊の別邸マルメゾンは、ジョゼフィーヌによって選ばれた絵画や、彼女の指示で製作した家具でこの上なく典雅になり、人生を美しく飾りたい彼女の感性を生かした社交も食卓も芸術的だった。それが粗野なナポレオンをどれほど補っていたことか。帝国を維持するために、世継ぎを授からないジョゼフィーヌと離婚し、ハプスブルク家から大皇女マリー・ルイーズを迎え王子に恵まれた皇帝だったが、本当に愛したのはジョゼフィーヌだけだったとセント・ヘレナ島で部下に語っている。ナポレオンは歴史に克明に名を残した稀有(けう)な英雄だったが、優艶なジョゼフィーヌもまた比類なき女性だったのである。



プロフィール

川島ルミ子(かわしま・るみこ)

東京都出身、パリ在住。ナポレオン史学会会員。フランス美術記者組合員。ファム・フォロム(フランスで活躍する女性の会)会員。『カルティエを愛した女たち』『最期の日のマリー・アントワネット』『ナポレオンが選んだ3人の女』『ル-ヴル美術館 女たちの肖像 描かれなかったドラマ』他、著書多数。

 

 

オススメ・コンサート オススメ・コンサート

2019年5月11日(土)6:00pm  2019年5月12日(日)3:00pm

第1912回 定期公演 Aプログラム NHKホール

ベートーヴェン/ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」

ジョン・アダムズ/ハルモニーレーレ(1985)

指揮:エド・デ・ワールト

ピアノ:ロナルド・ブラウティハム

 

 

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