NHK交響楽団
NHK Symphony Orchestra, Tokyo

 

『千一夜物語』の香り

徳永里砂

『千一夜物語』の香り

 

『千一夜物語』の矛盾

 時はサーサーン朝(ササン朝、3世紀〜7世紀)時代。妻の不貞がきっかけで女性不信になり、妻を娶(めと)ってともに一夜を過ごしては翌朝殺すということを繰り返すシャフリアール王。彼のもとに嫁いだ聡明なシャハラザード(シェエラザード)は、命をかけて、夜な夜な王に古今東西の奇想天外な物語を聞かせる──ご存知、アラビアン・ナイトの名でも知られる『千一夜物語』は、このような枠にちりばめられた物語の集合という形をとっている。しかし、読者はすぐにサーサーン朝時代の女性が後世のアッバース朝カリフ、ハールーン・アッラシード(在位786年~809年)について話し、果ては12世紀の十字軍時代の話まで物語るという決定的な矛盾に気付くだろう。

 有名なアラビア語の『千一夜物語』の原型が成立したのはイスラーム黄金期のアッバース朝(750年〜1258年)時代。とはいえ、ギリシャやインドなど各地の物語を枠物語の形にまとめたその骨格はペルシャにたどることができる。つまり、アラビア語に訳された段階で、底本に大胆な改変、脚色が加えられ、まったく新しい作品に生まれ変わっているのだ。その後も、『千一夜物語』には幾つもの写本が登場し、その都度新たな物語や脚色が加えられていった。物語の矛盾はさておき、この脚色こそがこの物語を不朽の名作にし、歴史家から見ればイスラーム黄金期の文化を知ることのできる宝に他ならない。

 

『千一夜物語』の写本(シリア、14世紀)。フランス国立図書館蔵

『千一夜物語』の写本(シリア、14世紀)。フランス国立図書館蔵

 

 『千一夜物語』の作者たちがかなりの思い入れをもって書いているのが、香りの描写だ。すっかり前置きが長くなってしまったが、ここでは、この作品に見られる香り、すなわちイスラーム黄金期の香(こう)に着目してみたい。

 

シャハラザードが語った香り

 『千一夜物語』の中で、香料に関する記述は非常に多く、特に日本の読者にとっては、エキゾチックなイメージを掻(か)き立ててくれる要素のひとつであろう。『千一夜物語』で圧倒的な言及回数を誇る香料は、竜涎香(りゅうぜんこう)、麝香(じゃこう)、沈香(じんこう、あるいはその高級品である伽羅〈きゃら〉)である。

 

香炉(エジプトあるいはシリア、13世紀。ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵)

香炉(エジプトあるいはシリア、13世紀。ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵)
© Victoria and Albert Museum, London

 

 希少な竜涎香が頻出することには驚かされる。竜涎香はマッコウクジラの体内でできる物質が長い間洋上を漂流することによってできるもので、ごく稀に海岸に打ち上げられているものが採取される程度であるため、大変高価なものだ。麝香はジャコウジカの分泌物に由来する香料、そして日本でもなじみ深い沈香は東南アジア原産の高価な香木である。

 

 香を焚く場面は、『千一夜物語』のいたるところに登場するが、そこでは竜涎香と沈香が最もよく使用されている。香炉にくべた香が燃えるときに出るかぐわしい煙は部屋を満たし、客をもてなし、男女の衣服に焚(た)き込められる。白檀(びゃくだん)への言及も多いが、これは焚香より、高価な木製品に使用されている例が多い。そのほか、ナッドと呼ばれる調合された香、霊猫香(れいびょうこう。ジャコウネコの分泌物を原料とする香)もみられる。また、顔に薔薇(ばら)水を振りかける場面が散見されるが、それに麝香や竜涎香が混ぜられていることもある。薔薇水とともに麝香はシャーベットや菓子の香り付けにすら使われた──いや、さすがにこんな贅沢はあり得ない。カリフの宮廷でもない限り、滅多にお目にかかれない高貴な香りのオンパレードではないか。『千一夜物語』は、当時の人々の夢とファンタジーの世界なのだ。ここに、彼らがどれほど東方の香を夢見、切望していたかを垣間見ることができる。

 

さまざまな種類の沈香。香炉に準備した炭の上に直接数片置いて、香りを楽しむ

さまざまな種類の沈香。香炉に準備した炭の上に直接数片置いて、香りを楽しむ
(写真:筆者提供)

 

シンドバードの時代の海上貿易──新たな香を求めて

 アラブ世界における香りへのこだわりは、この時代に始まったものではない。西アジアでの香の使用はおよそ5千年前に遡る。はじめは、主にアラビア半島南部と東アフリカでとれる樹脂香料の乳香(にゅうこう)と没薬(もつやく)が宗教儀式で最もよく使われていたが、次第に、アラブやペルシャの商人たちは新たな香や奢侈(しゃし)品を求めてインド洋世界まで出かけるようになった。そしてイスラーム世界が学問・技術・経済において世界の頂点にあったイスラーム黄金期、航海技術の発達とともにムスリム商人による海上貿易が今までに増して活発に行われ、さまざまな物品が行き来した。現在世界一のムスリム人口を擁するインドネシアやマレーシア、インドなどの東南アジアの諸地域──沈香や白檀の産地──に初めてイスラームが伝わったのは、まさにこのような背景による。ムスリム商人の交易圏は極東にも達した。中央アジアのシルクロードをたどって運ばれた絹も有名だが、海を渡った白磁などの中国や東南アジアの陶磁器もこの時期の中東の港や主要都市の遺跡から数多く出土している。船乗りシンドバード(シンドバッド)の船にもアジアからの香料や陶磁器がたくさん積まれていたにちがいない。

 

サウジアラビア、ジェッダ路上の香料屋に置かれた香炉

サウジアラビア、ジェッダ路上の香料屋に置かれた香炉
(写真:筆者提供)

 

現代に生きる『千一夜物語』の香り

 さて、『千一夜物語』に描写された夢の世界は、石油の恩恵を受けた現代のアラビアで半ば実現しているといっても過言ではないだろう。さすがに竜涎香のような希少なものは入手しづらいが、『千一夜物語』に登場するさまざまな香の多くは現在のアラビアでも使われている。使用法はといえば、『千一夜物語』の時代も現代も大方変わりない。

 現代のサウジアラビアでは、客人のおもてなしに、香炉に用意した炭の上で伽羅や沈香を焚く。食後には、香油で手を清める。白い伝統衣装のポケットに小さな沈香の精油の瓶を忍ばせている男性も多い。衣服のみならず、入浴後に香炉の上に立ち、体中の皮膚に香りを焚き染(し)める女性もいる。調理後は乳香などの香を焚いて部屋のにおいを浄化する。炭のいらない電気香炉もあるが、昔ながらの炭で焚く香に勝るものはない。薔薇水も健在だ。菓子や果物の香りづけの他、美容目的で使われている。香水から香油、ハーブの類、衣装箪笥(たんす)用の練り香、車のシガーソケットに取り付ける電気香炉まで、香りに関するのもなら何でも揃う香水屋「アッタール」はどの町にも必ずと言っていいほど存在する。アラブ世界の生活の中で、香りは衣食住と同じく欠かせない要素なのだ。

 

香りに関する物なら何でも揃う伝統的な香水屋「アッタール」

香りに関する物なら何でも揃う伝統的な香水屋「アッタール」
(サウジアラビア、ジェッダ、写真:筆者提供)

 

 

近代的な沈香専門店(サウジアラビア、リヤド)

近代的な沈香専門店(サウジアラビア、リヤド)
(写真:筆者提供)

 

 老若男女問わず愛され続ける『千一夜物語』。そこでシャハラザードが語ったかぐわしい香りは、今も、そしてこれからもアラブ世界に生き続けることだろう。



プロフィール

徳永里砂(とくなが・りさ)

アラブ イスラーム学院研究員、金沢大学客員准教授。慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程修了。専門はアラビア半島の考古学・碑文学。サウジアラビアでのフィールドワークに従事する。著書に『イスラーム以前の諸宗教』、訳書にカレン・アームストロング『ムハンマド』、ローレン・レドニス『雷鳴と稲妻』など。

 

 

オススメ・コンサート オススメ・コンサート

2019年1月16日(水)7:00pm  2019年1月17日(木)7:00pm

第1904回 定期公演 Bプログラム サントリーホール

フォーレ/組曲「ペレアスとメリザンド」作品80

ブリテン/シンプル・シンフォニー 作品4

リムスキー・コルサコフ/交響組曲「シェエラザード」作品35

指揮:トゥガン・ソヒエフ

 

 

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