NHK交響楽団
NHK Symphony Orchestra, Tokyo

 

Great Wave としての北斎

橋本麻里

Great Wave としての北斎

 

 古今東西の日本美術の中で、世界的にもっともよく知られているイメージは、葛飾北斎による『富嶽三十六景』シリーズに収録された、逆巻く白波の彼方に富士山を望む、「神奈川沖浪裏」(かながわおきなみうら)をおいて他にないだろう。世界から見た「日本」の表象ともなっているこの作品が生み出されたのは、90歳という長寿を保ち、70年以上に及ぶ北斎の長い画歴の、実は晩期にあたる。

 

葛飾北斎『富嶽三十六景』より「神奈川沖浪裏」

葛飾北斎『富嶽三十六景』より「神奈川沖浪裏」

 

 19歳で似顔役者絵の第一人者・勝川春章に弟子入りし、師が亡くなってからは勝川派を離れて琳派を学び、その後もベストセラー作家の曲亭馬琴と組んで読み本の挿絵を手がけ、収録総図数約3900余点、絵による百科事典ともいうべき『北斎漫画』をはじめとする絵手本に取り組み──。歳を重ねても衰えることのない探求心に突き動かされるまま、北斎は多彩な技法、メディアを駆使して、常に新しい試みに挑戦し続けた。

 そして多くの人がその名を聞いて思い浮かべる、『富嶽三十六景』『諸国瀧廻り』など多色刷りの風景版画を集中的に量産した「錦絵の時代」を迎えるのは、彼が70代に差しかかった天保元年(1830)のこと。天保4年(1833)以降、版画ではなく1点ものの肉筆画に重心を移すまでのわずか4年の間に、北斎は風景をテーマとする錦絵の傑作を数多く残した。

 面白いのは、役者絵と美人画を双璧としていた錦絵に、この時点ではまだ「風景画」というジャンルが存在しなかったことだ。むろん古くから知られた景勝地や由緒ある寺社など「名所」をモチーフとする浮世絵は、旅行者向けの土産物として売られていた。北斎も若い頃、そうした名所絵は当然描いている。それが70代に至って、描くべき価値や歴史を自明のごとく持つ「名所」ではなく、名もない場所を自らの目で「風景」として見出し、自らの心象の中で千変万化する富士の形態や水の形態、風の形態を自在に描くところにこそ、意味を見出した。英語で“Great Wave”と通称される「神奈川沖浪裏」が、そのとおりの景観として見える「名所」は存在しない。北斎が『富嶽三十六景』によって切り拓(ひら)いたのは、誰も見たことのない、「風景」という新たなイメージだったのだ。それから半世紀の後、北斎をはじめとする日本の浮世絵にヴィヴィッドな反応を示したのは、ヨーロッパの印象派の画家たちだった。

 社会の担い手が王侯貴族から市民へ移り、産業革命が機械文明をもたらして人々の暮らしを大きく変えたヨーロッパの19世紀。日本でも明治政府が海外との外交・通商に門戸を開き、万国博覧会を通じて、美術工芸品を積極的に輸出し始めたことを契機に、19世紀末から20世紀初頭にかけ、ヨーロッパやアメリカで「ジャポニスム(日本ブーム)」が巻き起こった。

 近代市民社会の感性に合致する、新しい表現を模索していた芸術家たちに、西欧の伝統的な絵画表現の枠組から自由な日本の絵画──たとえばルネサンス以来の3次元の遠近法(一点消失法)からまったく外れた、上からでも下からでも、自由な角度から対象を描いたり、非対称の大胆な構図を取ったりする──は、大きなインスピレーションを与えたのだ。

 起こった変化のすべてを浮世絵や北斎に帰するような牽強付会(けんきょうふかい)は慎みたいし、浮世絵をはじめとする日本の美術・工芸の、西洋美術への影響と言ったとき、浮世絵や着物、団扇(うちわ)などを収集して自宅に飾り、エキゾティシズムを感じさせるモチーフとして絵の中に登場させる初歩的な段階から、木版画ならではの明快な構図法、色彩感覚を応用して、自らの表現の中に採り入れる高度な段階まで、さまざまな様相が見られるのも確かだ。

 だが北斎の描いた、仏典や和歌などの古典的な教養、土地にまつわる歴史的文脈を前提とせず、富士山のシルエットと超高速シャッターを切ったような水の形態だけを、単純な視覚的快感とともに味わえる風景版画や、モチーフとしては森羅万象を、また絵画史上のアイディアと技術を収集した絵手本は、日本の絵画史においても、新しい領域を切り拓く挑戦だった。その問題意識や表現が、光あふれる目の前の現実世界を対象に、一瞬を切り取り、鮮やかな色彩で彩ってみせた印象派の画家たちとある部分で似通っていたからこそ、当時の西洋における言説、また作品そのものを通じて、言及され、引用される頻度が圧倒的に多いのだろう。

 最後にもうひとつ指摘しておきたいのが、北斎の風景版画を彩る青色だ。それまで日本の絵画や染色では、植物から採った藍や鉱物から作る群青を利用してきた。だがこれらの色材は、多色刷りの木版画には向かず、あまり使われずにいた。それが、18世紀初頭にベルリンで発明された化学顔料「プルシアンブルー」が出島経由で日本へ持ち込まれたことで一変する。水によく溶け、光(可視光・紫外線)や酸素に対して安定し、青の発色が鮮やかで、かつぼかし(グラデーション)が容易にできる舶来の顔料は、木版画でこそ真価を発揮する。役者絵と美人画を二本の大きな柱としてきた浮世絵の中に、北斎が海と空とを大きく採り入れた「風景画」を生み出すことができたのは、この新しい青色顔料の登場に拠るところも大きい。日本と西洋は、こうして互いに影響を与え合いながら、美の歴史を織りなしてきたのである。



プロフィール

橋本麻里(はしもと・まり)

日本美術を主な領域とするライター・エディター。公益財団法人永青文庫副館長。出版社勤務を経てフリーランスに。新聞、雑誌等への寄稿のほか、NHKの美術番組を中心に、日本美術のわかりやすい解説に定評がある。著書に『美術でたどる日本の歴史』全3巻、『京都で日本美術をみる[京都国立博物館]』、編著に『日本美術全集』第20巻ほか。

 

 

オススメ・コンサート オススメ・コンサート

2018年6月9日(土)6:00pm  2018年6月10日(日)3:00pm

第1888回定期公演Aプログラム NHKホール

イベール/祝典序曲

ドビュッシー/ピアノと管弦楽のための幻想曲

ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲

ドビュッシー/交響詩「海」

指揮:ウラディーミル・アシュケナージ

ピアノ:ジャン・エフラム・バヴゼ

 

没後100年に当たるドビュッシー。《交響詩「海」》の出版譜の表紙には葛飾北斎「神奈川沖浪裏」があしらわれていました。北斎と印象派の作曲家とのつながりに思いを馳(は)せながら、コンサートをお楽しみください。

 

 

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