NHK交響楽団
NHK Symphony Orchestra, Tokyo

 

「切り裂きジャック」の心理学

――なぜ創造性をかきたてられるのか?

中野信子

「切り裂きジャック」の心理学

 

 「切り裂きジャック」の名を聞いたことがない、という人は少ないだろう。

 19世紀末のイギリスで、約2か月の間に少なくとも5人の娼婦(しょうふ)が殺害されたホワイトチャペル連続殺人事件の犯人の通称である。100年以上経った現在もその正体は不明、真相究明のためDNA鑑定など新しい技術を使った試みもなされてきたが、いまだに真犯人の特定には至っていない。

 こうしたシリアルキラーと呼ばれる連続殺人犯や殺人鬼は、世にしばしば現れるが、なぜこの事件が突出して人々の関心を呼び、多くの創作家の創造性を刺激してきたのだろうか?これまでにも音楽、小説、漫画やアニメ(日本のものでは『ジョジョの奇妙な冒険』『パタリロ!』『上海妖魔鬼怪』など)、ゲーム(『ナイトメア・クリーチャーズ』『アサシン クリード シンジケート』など)など、この事件をモチーフにした作品が数多く作られてきているが、今なおその影響力は衰えているとは思われない。この異様な魅力はいったい、何に起因するのだろうか。

 

謎の真犯人

 この事件の概要をさらっておこう。犯行現場はロンドンのイーストエンド、ホワイトチャペル。イーストエンドというのは当時のロンドンでも最も貧しい地域で、食肉工場があり、腐ったくず肉、糞尿等が垂れ流しで臭気が立ち込め、衛生的にも劣悪な環境であった。そんなイーストエンドには春を鬻(ひさ)ぐ女性が数万人規模でいたという。

 切り裂きジャックによる最初の犠牲者はメアリー・アン・ニコルズ。40代の娼婦であった。当初、イーストエンドという地域性から、その殺人はありふれたものであるとみなされた。喉を切り裂かれ、腸が引きずり出されて、性器にも刺し傷があった、という異様な遺体の様子以外に特筆すべきものはなく、これはむしろ犯人特定の有力な手掛かりになると考えたスコットランド・ヤードは、食肉工場が近いことから屠殺(とさつ)を日常的に行う者(「皮エプロンの男」と呼ばれた)を容疑者として捜索を始めた。

 しかし8日後、同じく40代の娼婦アニー・チャップマンが殺される事件が起きた。ニコルズの場合と同様、遺体は喉を切り裂かれ、臓器を引きずり出されていたが、さらに子宮や膀胱(ぼうこう)などが持ち去られており、遺体の様子は凄惨(せいさん)さを増していた。

 検視官は遺体を分析し、特殊な知識がなければヒトの子宮を探り当てて傷つけずに取り出すことは極めて困難であり、屠殺業の人間にはほぼ不可能であるとして、真犯人はヒトの死体解剖に習熟した者なのではないかと指摘した。

 

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1888年10月13日付)掲載の容疑者のイラスト

『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1888年10月13日付)掲載の容疑者のイラスト

 

 その3週間後、またしても40代の娼婦エリザベス・ストライドとキャサリン・エドウズが同じ夜に殺された。やはり喉を切り裂かれていた。エリザベスの事件では目撃者がいたにもかかわらず、真相の究明には至らなかった。

 約2か月後の11月9日、メアリー・ジェーン・ケリーが惨殺。彼女は20代だったが、やはり娼婦であった。喉を切り裂かれ、臓器は抜かれて別の場所に配置されていたという。しかし、切り裂きジャックはこれを最後に二度と現れなかった。

 10月に新聞に掲載された、真犯人によるとみられる犯行声明には「私は売春婦に恨みがある。捕まるまで切り裂いてやる」と記されていた。しかし、逮捕されたわけでもないのに連続殺人が途絶えたのは実に奇妙なことといえる。この文面と最後の事件自体が犯人を指し示す重要な手がかりであるとして、メアリー・ジェーン・ケリーと同棲(どうせい)していたジョセフ・バーネットがその正体であり、連続殺人はメアリーに売春をやめさせるために仕組んだ事件であったと考える人もいるが、真相は不明なままだ。

 

新聞社に届いた犯人(?)からの手紙の封筒(1888年9月25日付)

新聞社に届いた犯人(?)からの手紙の封筒(1888年9月25日付)

 

心理学で読み解けば

 「ツァイガルニク効果」という心理学の分野での現象がある。中途半端になっている作業や仕事は強烈に頭に残ること、そして作業が完結するとすぐにその記憶は消え去ることが知られているのだ。

 切り裂きジャック事件は強烈なインパクトを与えるものであったにもかかわらず、真犯人も不明なら、その動機も不可解、遺体の処理方法も常人の理解を超えるものがある。ゆえに、人々の心理には、なんとかその中途半端な状態から来る葛藤(かっとう)を解消したいという欲求が生じ、それが創作の原動力になったのだろう。

 切り裂きジャック事件よりもずっと犠牲者の多い連続殺人事件もいくつもあるのだが、シリアルキラー、といったときにまず「切り裂きジャック」が想起されるのは、その正体のわからない不気味さ、ミステリアスな結末が人々の心をざわつかせ、創造性をかきたてる源になったことが大きな要因だろう。

 シリアルキラーの手による絵画やアート作品、言説をまとめた記録本が世をにぎわすことがあるが、これもまた同様の理屈で、日常の範囲内では理解がおよばない不可解さからくる葛藤を解消したい欲求が高まるために、人は意図せずしてその世界に引き込まれてしまうのである。そのさまはまるで、明るく燃え盛る灯火に誘惑され、危険な熱に飛び込んでいく虫の姿のようにも見える。



プロフィール

中野信子(なかの・のぶこ)

脳科学者。2008年東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。2015年東日本国際大学教授に就任。現在、脳や心理学をテーマに研究や執筆の活動を精力的に行っている。科学の視点から人間社会で起こりうる現象および人物を読み解く 。主な著書に『脳内麻薬』『サイコパス』など。

 

 

オススメ・コンサート オススメ・コンサート

2017年10月14日(土)6:00pm  2017年10月15日(日)3:00pm

第1867回定期公演Aプログラム NHKホール

モーツァルト/歌劇「イドメネオ」序曲

ベルク /ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出のために」

モーツァルト/歌劇「皇帝ティトゥスの慈悲」序曲

ベルク /「ルル」組曲*

指揮:下野竜也

ヴァイオリン:クララ・ジュミ・カン

ソプラノ:モイツァ・エルトマン*

 

ベルクの《歌劇「ルル」》では、ファム・ファタル(魔性の女)ルルは「切り裂きジャック」により最後を迎えます。そんな悲劇を予期しつつ、ベルクとモーツァルトの対比を存分にご堪能(たんのう)ください。

 

 

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