NHK交響楽団
NHK Symphony Orchestra, Tokyo

 

豪奢なるローマへの道

豪奢なるローマへの道

――ローマ賞の画家が憩うヴィラ・メディチ

岡部あおみ

 

 同じ場所を訪ねても、年とともに喜びが深まる街がある。ローマは私にとってそうした都市のひとつだ。聞きなれた古典音楽が、ある日新鮮な生のニュアンスを伝えるように、ゆったりと身をゆだねると、尽きせぬ感動が湧(わ)きでてくる。

 ヴァチカンを筆頭に壮麗な聖堂や教会がまばゆく林立するローマは、古代の遺跡と華麗なルネッサンスやバロックが同居する、芸術家にとって昔から憧憬(しょうけい)の都であった。イタリア美術の栄光をフランスにもたらそうと、太陽王ルイ14世の時世に、在ローマ・フランス・アカデミーが設立され、ローマに滞在して修練に励む優秀な芸術家の卵を選抜するコンクールが1663年から実施された。それがローマ賞である。

 

ヴィラ・メディチのバルチュス

 ナポレオン・ボナパルトの意向で1803年以来、ローマ賞受賞者はピンチョ丘の上のヴィラ・メディチに滞在している。ボルゲーゼ公園に隣接するルネサンス様式の庭園の中にある邸宅で、16世紀の浮彫やフレスコ画がほどこされた建物だ。文化相アンドレ・マルローの依頼で、画家バルチュスは1961年にこのアカデミーの館長となり、16年間をローマで過ごした。「バルチュスとジャコメッティ」展をメルシャン軽井沢美術館で1997年に手掛けたとき、スイスのバルチュス邸を訪ねて本人からローマ時代の話を伺った。節子夫人をモデルにした『トルコ風の部屋』や2対の浮世絵風の大作が描かれたのもヴィラ・メディチ、彼は館や庭園の改装に着手し、自らの手で壁面の修復も行った。

 

ヴィラ・メディチ 庭園側

ヴィラ・メディチ 庭園側

 

 ローマをこよなく愛したバルチュスが遺(のこ)したヴィラの美しい壁面を、実際に目にする機会も訪れた。寓話(ぐうわ)を主題に素描力を重視したローマ賞の伝統は、革新的な20世紀の美術潮流とは相いれず、学生たちの過激な反体制運動が起きた1968年に廃止になる。その後、より自由で新たなローマ賞が再興され、たまたま友人の造園家のカップルが受賞してヴィラに滞在した。受賞者は滞在期間に友達を招待できる。私が宿泊したのは眼下にローマの町が広々と見渡せる部屋だった。かつてローマ賞に輝いたジャン・オーギュスト・ドミニク・アングルが滞在していた部屋だという。

 

 

師匠ダヴィッドの苦戦

 フランスの食通ブリア・サバランは19世紀初頭に出版した『美味礼讃』で、ローマの美食家たちを、橋と橋の間で捕られた魚と、もっと下流で釣られた魚の味を見分けられる味覚の達人と讃えている。しかも彼は肉食より、魚を食べると性欲が刺激されると信じていた。

 しかしフランスの若手芸術家にとって、人生の栄誉が保証される美と魔法の王国への道は長年、厳しく過酷であった。若き日にアングルがそのアトリエで学んだ新古典主義の旗手ジャック・ルイ・ダヴィッドは、何度もローマ賞に落選し、1775年、27歳ごろに政府の給費留学を果たした。

 

ダヴィッド『アンティオコスとストラトニケ』(1774年、ローマ賞受賞作)

ダヴィッド『アンティオコスとストラトニケ』(1774年、ローマ賞受賞作)

 

 ローマ賞は絵画、彫刻、建築、音楽などの分野に分かれており、画家の受験資格は30歳までで、パリのボザール(国立美術学校)の合格者に限られていた。したがって入学が許されなかった女性は1903年まで受験資格がなかった。選抜はまず聖書物語や神話の主題の習作試験で100人が残され、次に4日間かけた裸体の油絵でさらに15~20名ほどにしぼられる。そして3か月かけて与えられたテーマを195×130cmの油彩に練り上げねばならない。最終審査でグランプリを獲得した若者だけが、ローマへの旅を手にした。候補者の中には絵の失敗を隠すためか、こっそり細部をつぎはぎしたりして不合格になった画家もいる。審査後、提出絵画は展示され、期待と賞賛と羨望(せんぼう)に燃えた衆目の評価と批判にさらされた。

 ダヴィッドはロココの大家フランソワ・ブーシェの親戚(しんせき)筋で、ブーシェはローマ賞を受賞したにもかかわらず自費でローマに行った。そして帰国後、宮廷主席画家、王立絵画彫刻アカデミー会長の要職をほしいままにした。若きダヴィッドは前世代のロココの巨匠からの脱皮に苦闘したのだ。

 

アングルの官能美

 アングルはこの登竜門をすんなりとパスした。師のダヴィッドほど周囲からのプレッシャーがなかったのかもしれない。1801年、彼がまだ21歳ころの最終試験の課題は、ギリシア最古の叙事詩、ホメロスの『イーリアス』物語から『アキレウスのもとにやってきたアガメムノンの使者たち』だった。勇者2人の緊張関係が見事な裸体表現に構築された画面だが、驚きで身を乗り出すアキレウスの奥に控える青年の妙にうねった肢体が、後にイタリアで成熟を遂げる『グランド・オダリスク』などのエロティシズムにつながるように感じられる。

 

アングル『自画像』(1804年)

アングル『自画像』(1804年)

 

 フランス革命直後の混乱のため、アングルがイタリアへ発ったのは、ナポレオンの主席画家となったダヴィッドが『ナポレオンの戴冠式』の巨大画面に挑んでいた1806年。ローマでラファエロに心酔して18年間イタリア滞在を謳歌(おうか)した後、パリに戻り10代のテオドール・シャセリオーの才能を見抜いて愛弟子にした。だが自らの芸術に満足できる評価が得られなかったせいなのか、1834年に再びローマの地を踏み、7年間ヴィラ・メディチでアカデミーの院長を務めた。眺めのいいあのアングルの部屋は、きっとお気に入りだったに違いない。

 

アングル『グランド・オダリスク』(1814年、ルーヴル美術館蔵)

アングル『グランド・オダリスク』(1814年、ルーヴル美術館蔵)

 

 政治亡命したダヴィッド亡き後、一世を風靡(ふうび)したウジェーヌ・ドラクロワらのロマン主義運動に対抗して、アングルは後継者として新古典主義を牽引(けんいん)した。とはいえ、ローマで研(と)ぎすまされた妖艶(ようえん)な官能美と個性的な身体のデフォルメは、時代を超えて、バルチュスやピカソなどの近現代美術にまで反響しているように思える。

 玄人はだしを意味する「アングルのヴァイオリン」は、ヴァイオリンの名手だったこの画家に由来する。ローマ時代に、ヴァイオリンの超絶技巧で知られたイタリアの作曲家パガニーニの素描も描いた。また、ローマ賞音楽賞を1830年にやっと手にした作曲家ベルリオーズとは、院長時代に会っていたかもしれない。だがパガニーニもベルリオーズもロマン派として有名な音楽家だ。アングルは一体どのような顔で彼らの曲に耳を傾けたのだろう。



プロフィール

岡部あおみ(おかべ・あおみ)

美術評論家。東京都生まれ。ポンピドゥー・センター国立近代美術館特別研究員、メルシャン軽井沢美術館チーフ・キュレーター、武蔵野美術大学教授を歴任。2014年からパリ日本文化会館展示部門アーティスティック・ディレクターとして本施設のギャラリーで「真鍋大度と石橋素展」「内藤礼展」をキュレーションする。映像作品に『田中敦子のもうひとつの具体』。主な著書に『ポンピドゥー・センター物語』、『アートと女性と映像』他。

 

 

オススメ・コンサート オススメ・コンサート

2017年6月24日(土)6:00pm  2017年6月25日(日)3:00pm

第1862回定期公演Aプログラム NHKホール

デュティユー/メタボール(1964)

サン・サーンス/ピアノ協奏曲 第2番 ト短調 作品22

ラヴェル/優雅で感傷的なワルツ

ラヴェル/「ダフニスとクロエ」組曲 第2番

指揮:パーヴォ・ヤルヴィ

ピアノ:河村尚子

 

「ローマ賞」には音楽賞もあり、多くのフランスの作曲家たちもまた受賞をめざしましたが、ラヴェル、サン・サーンスは選にもれ、デュティユーは1938年に受賞するも戦争のためわずか数か月で帰国することになりました。今回のプログラムには作曲家たちのイタリア文化への憧れもどこかに感じられるかもしれません。

 

 

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