NHK交響楽団
NHK Symphony Orchestra, Tokyo

 

活動報告

2017年5月8日

NHK交響楽団 ヨーロッパ公演2017 演奏会評

 

今回のヨーロッパ公演は、ヨーロッパ各地のメディアを通じてツアー前から大きく紹介され、コンサート後には多くの演奏会評が掲載されました。ここでは演奏会評の一部をご紹介します(抄訳)。

 

ベルリン公演

Die Welt紙オンライン版‘Brugs Klassiker’

2017年3月1日

Manuel Brug

 

異例とも言える難易度の高い今回のヨーロッパ公演プログラムの最初を飾るのは、パーヴォ・ヤルヴィが好んで共演するヴァイオリニスト、ジャニーヌ・ヤンセンをソリストに迎えてのモーツァルト《ヴァイオリン協奏曲第3番》である。小編成のオーケストラが自らをさらけ出すことを余儀なくされるこの作品では、冒頭部でイントネーションにやや乱れが見られ、響きにやや硬さが感じられる一方、ジャニーヌ・ヤンセンの早めのテンポ設定でクリアな演奏には、常軌を逸する乱れは一切聴こえない。万人に好まれるようなモーツァルトであり、美しく、明瞭(めいりょう)だが、残響がやや乏しい。

モーツァルトに続くのは、重厚感あふれる大曲、マーラー《交響曲第6番》である。パーヴォ・ヤルヴィは、心地良いモーツァルトの世界からオーケストラを連れ出し、明確なアクセントで始まる冒頭部から、激烈さをもって激しい演奏を続けるよう求める。だが、ヤルヴィのマーラーに対する姿勢には、センチメンタルさは微塵(みじん)もなく、一切の私情が排された様は、気持ちが良いくらいである。ヤルヴィの比喩(ひゆ)的・客観的な解釈は、日本の気質に合ったものなのであろう。2日前に同じホールでアラン・アルティノグリュがベルリン放送交響楽団とともにマーラー《交響曲第3番》で披露した、ヨーロッパ的感覚に基づいた、探索的・感傷的な解釈とはまったく異なる響きである。

 

ルクセンブルク公演

Luxemburger Wort紙

2017年3月3日

Pierre Gerges

 

ショスタコーヴィチ《交響曲第10番》を、作曲された時代(1953年)に結びつけずに聴くことができるだろうか。独裁者スターリンは確かに死去したとはいえ、敷かれた抑圧的な体制はまだ消え去っていなかった。パーヴォ・ヤルヴィの答えは、だからこそ、作品を歴史的決定論から分離し、不安をかきたてるパトスを必ずしも際立たせることなく、うんざりするほど語られた抑圧という先入観を楽譜から「洗い流す」ことだった。

パーヴォ・ヤルヴィは病的な凶暴性よりも、むしろマーラー風の力強さを選び、レリーフのように輪郭を浮き上がらせた楽節の運びと、張り詰めた緊張を維持せずに、幾つかの一節を超然とした、諦観(ていかん)ともいえる穏やかさの中に沈めうる麻痺(まひ)状態に持ち込む傾向すら見せた。日本人の音楽家たちは、ショスタコーヴィチのメッセージの不穏な普遍性、抽象的な怒り、無言の威嚇を特に際立たせて表現し、全般的に告白の激しい動揺の雰囲気と引きつりを排しながらも、形式美に陥ることのない音の文化を前面に出した。

 

パリ公演

DiAPASON誌 オンライン版

2017年3月7日

Rémy Louis

 

ヤルヴィならではの力強さが、シベリウスの《ヴァイオリン協奏曲》を満たしていた。共演はジャニーヌ・ヤンセン。弓のさばき方、軽快なフレージング、自由でありながら完璧に制御された語り口、ヤンセンの魅力にはあらがいがたい。わき出るようなインスピレーション、そして、彼女がすべてに織り込む一片の官能性が、この曲に古典たる証しを、そして想像力に満ちた光と優しさを与えている。日本の音楽家たちは一方、シベリウスの中に、ドイツ文化に触発されたオーケストラの姿を示していた。コントラバスの広がりと深みのある演奏、素晴らしくまろやかなホルン、あるいはカルテットの暗めの音色が、それを物語っている。

続くショスタコーヴィチ《交響曲第10番》でも、その思いは強まった。驚くべきは各パートとオーケストラ全体に行きわたる並外れた規律、そして指揮者の逼迫(ひっぱく)した振りに反応する俊敏さだ。凝縮された表現により、何より音自体が濃縮され、マットな触感を生んでいる。艶(つや)感を求めるオーケストラの多い今日では珍しいことだ。これがさらに、ヤルヴィの緊張感あふれる鋭利な指揮に見事にかなっていた。ヤルヴィは楽曲のもつスターリン的文脈に私たちを一気に導いていく。

アンドリス・ネルソンスは、ロイヤル・コンセルトヘボウとともに、次いでボストン交響楽団とともに、私たちに素晴らしい《第10番》を2度聞かせてくれた。その音はより豪奢(ごうしゃ)で「快適」なものだった。対して、N響の音楽家たちは生々しさとリアルを追求する。若いオーケストラがもつ危ういまでの率直さ、そして経験が育てる技量。2つを併せもつのだから、その説得力は疑う余地がない。

 

アムステルダム公演

de Volkskrant紙

2017年3月7日

Guido van Oorschot

 

日本のオーケストラは言ってみれば機械だ。彼らは完璧な演奏をするが、感情が欠けている。とすれば、アムステルダムのコンセルトヘボウにおけるN響の公演も、純粋に統計上のものとして片付けられたかもしれない。世界トップから東京がどの程度遅れを取っているのか測るという意味で。

すでにシベリウス《ヴァイオリン協奏曲》にジャニーヌ・ヤンセンを起用したことが、日本人たちの利口さを示している。大ホールは全席埋まっていた。いつも通り、ヤンセンは音符に情熱を込めて演奏した。しかし、夜もふけたころ、ショスタコーヴィチ《交響曲第10番》の演奏が終了すると、その記憶はほとんど消えていた。世界的スターのジャニーヌ・ヤンセンも、ドリームチームの勝利の下、脚注と化した。

弦楽器はクラシック愛好家が通常ウィーン・フィルの特徴とみなす輝きを放っていた。ヴィオラはベルリンさながらであった。日本人は、このコンセルトヘボウという虎穴でアムステルダム的な切り札を切った――どんなに指がまわっても、見せびらかしはありえない。このオーケストラを知らぬ間に世界トップに持ち上げた男の名は、パーヴォ・ヤルヴィという。

 

ロンドン公演

the arts desk.com

2017年3月7日

David Nice

 

ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、コンセルトヘボウ、N響。みなさんは日本のオーケストラをヨーロッパのトップ・オーケストラと同列に並べるなんて考えられただろうか?私自身、そんなことは考えられなかった――少なくとも昨夜までは。ヨーロッパ勢ほどの、音の溶け合う温かみはないが、決して機械的で冷たい音ではない。そして驚いたのは、他に類を見ない鋭敏さである。マーラー《第6番》で最終楽章の中心となる熱狂の進軍にとことん対峙(たいじ)する首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィの姿勢が、それを促しているのは間違いないだろう。

多くの楽員たちの身体的な動きや、演奏に没頭する様子から、演奏への献身が目に見えて伝わってくる。あらゆるディテールが明確に刻み込まれ、すべてのフレーズが柔軟でありつつも確固とした目的を持っている――今回はそんなマーラー《第6番》である。一瞬の緩みも、1小節として無駄な演奏もなかった。これほど自信に満ちて鋭いマーラー《第6番》の演奏は、2度と現れないだろう。

 

ウィーン公演

Der Standard紙

2017年3月8日

Ljubiša Tošic

 

ヤルヴィは、かつてドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団との共演で、ベートーヴェンの交響曲との緻密(ちみつ)な取り組みにより、驚くべきニュアンスを発見した。さらに、ヤルヴィにはN響という、すべてのセクションで明解な演奏を旨とする、洗練され、技術的に卓越した楽団が提供された。同楽団では客観性を重んじる音色が支配し、ショスタコーヴィチ《交響曲第10番》の演奏でも作品の性格を的確に捉えている。そこには、無慈悲な密度をもつ恐怖音楽へと陥れる、冷たい暗黒のような抽象的ポエジーが漂う。第2楽章の残虐さは高度な簡潔さをもって終結する。総体的に、それは感傷を排した激しさをもつ、赤裸々な演奏である。

 

ケルン公演

Kölner Stadt Anzeiger紙

2017年3月10日

Bernhard Hartmann

 

パーヴォ・ヤルヴィは常に冷静で思慮深く、主導権を握る音響ディレクターの役割を全うし、不安を巧みに構築し、クライマックスを効果的に準備する。第1楽章では時折、強音のパッセージにやや粗さが感じられたが、ヤルヴィが初版通りに、マーラー自身が初演時に(第2楽章と第3楽章を)入れ替えた演奏順に反して2番目に演奏したスケルツォにおいて、N響は傑出した演奏で聴衆を沸かせた。弦楽器、木管楽器、ソロ・ホルンがアンダンテにおいて見事な叙情的音響で表現した夢は、フィナーレの残酷さに引き裂かれる。その後30分間、悲しみと絶望の間で混乱が続くが、これをオーケストラは、打楽器奏者のアグレッシブな演奏により印象的に表現した。演奏が終わると聴衆は、数秒間の完全な沈黙の後に盛大な拍手を送った。

 

 

N響について

新着記事

全て表示 全て表示

カテゴリー

アーカイブ